んにょかん》の礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。男は帽子の縁《ふち》に手をかける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はその鍔《つば》の下にあるべきはずの大きな黒子《ほくろ》を面と向って是非突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から出任《でまか》せの質問をかけたかも知れない。それでなくても、直《ただ》ちに彼の傍《そば》へ近寄って、満足の行くまでその顔を覗《のぞ》き込んだろう。この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審を抱《いだ》いた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌疑《けんぎ》の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で打《う》ち毀《こわ》すと同じ結果になる。
 こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会が廻《めぐ》って来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。その代り見え隠れに二人の後《あと》を跟《つ》けて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳に挟《はさ》もうと覚悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自分の骨折から出る結果は、世故《せこ》に通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ淡泊《たんぱく》に信じていた。
 やがて男は女を誘《いざ》なう風をした。女は笑いながらそれを拒《こば》むように見えた。しまいに半《なか》ば向き合っていた二人が、肩と肩を揃《そろ》えて瀬戸物屋の軒端《のきば》近く歩き寄った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑を免《まぬ》かれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、故意《わざ》とあらぬ方《かた》を見て歩いた。

   
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