十
敬太郎《けいたろう》は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺《なが》めていたが、美くしい歯を露《む》き出しに現わして、潤沢《うるおい》の饒《ゆた》かな黒い大きな眼を、上下《うえした》の睫《まつげ》の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に見惚《みと》れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い中折《なかおれ》が乗っているのに気がついた。外套《がいとう》は判切《はっきり》霜降《しもふり》とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸《ひとみ》に投げた。その上背は高かった。瘠《やせ》ぎすでもあった。ただ年齢《とし》の点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。けれどもその人が寿命の度盛《どもり》の上において、自分とは遥《はる》か隔《へだ》たった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を躊躇《ちゅうちょ》なく四十|恰好《がっこう》と認めた。これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先刻《さっき》から馬鹿を尽してつけ覘《ねら》った本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。彼は例刻の五時がとうの昔《むか》しに過ぎたのに、妙な酔興《すいきょう》を起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ち終《おお》せたのを幸運の一つに数えた。彼はこのX《エックス》という男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がY《ワイ》という女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する気色《けしき》もなく、なお立ちながら話していた。女は始終微笑を洩《も》らす事をやめなかった。男も時々声を出して笑った。二人が始めて顔を合わした時の挨拶《あいさつ》の様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。異性を繋《つな》ぎ合わせるようで、その実両方の仲を堰《せ》く、慇懃《いんぎん》な男女間《な
前へ
次へ
全231ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング