と》める女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚に伴《とも》なったものだと彼は勘定《かんてい》していた。
 ところが今|後《うしろ》から見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間に旨《うま》く調子が取れているように思われた。彼女《かのおんな》は先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さを凌《しの》ぎかねる風情《ふぜい》もなく、ほとんど閑雅《かんが》とでも形容したい様子をして、一段高くなった人道の端《はじ》に立っていた。傍《そば》には次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分の傍《そば》へ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち退《の》いたので大いに安心したらしい彼女は、その中《うち》で最も熱心に何かを待ち受ける一人《いちにん》となって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。敬太郎は派出所の陰を上《かみ》へ廻って車道へ降りた。そうしてペンキ塗の交番を楯《たて》に、巡査の立っている横から女の顔を覘《ねら》うように見た。そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。今まで後姿《うしろすがた》を眺《なが》めて物陰にいた時は、彼女を包む一色《ひといろ》の目立たないコートと、その背の高さと、大きな廂髪《ひさしがみ》とを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論を弄《もて》あそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。要するに女は先刻より大変若く見えたのである。切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ生々《いきいき》した一種|華《はな》やかな気色《きしょく》に充《み》ちて、それよりほかの表情は毫《ごう》も見当らなかった。敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
 やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと緩《ゆる》く廻転して来た。それが女のいる前で滑《すべ》るようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものを提《さ》げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると直《すぐ》に女の前に行って、そこに立ちどまった。

        三
前へ 次へ
全231ページ中82ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング