その時|敬太郎《けいたろう》の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪《ひさしがみ》に結《い》っているので、その辺の区別は始めから不分明《ふぶんみょう》だったのである。が、いよいよ物陰に来て、半《なかば》後《うしろ》になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を襲《おそ》って来た。
見かけからいうとあるいは人に嫁《とつ》いだ経験がありそうにも思われる。しかし身体《からだ》の発育が尋常より遥《はる》かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。それならなぜあんな地味な服装《つくり》をしているのだろう。敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄《しまがら》について、何をいう権利も有《も》たない男だが、若い女ならこの陰鬱《いんうつ》な師走《しわす》の空気を跳《は》ね返すように、派出《はで》な色を肉の上に重ねるものだぐらいの漠《ばっ》とした観察はあったのである。彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える刺戟性《しげきせい》の文《あや》をどこにも見せていないのを不思議に思った。女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意を惹《ひ》くのは頸《くび》の周囲《まわり》を包む羽二重《はぶたえ》の襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
敬太郎は年に合わして余りに媚《こ》びる気分を失い過ぎたこの衣服《なり》を再び後《うしろ》から見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。その上この女の態度にはどこか大人《おとな》びた落ちつきがあった。彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは見傚《みな》し得なかった。家庭以外の空気に触れたため、初々《ういうい》しい羞恥《はにかみ》が、手帛《ハンケチ》に振りかけた香水の香《か》のように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、身体《からだ》全体の運動となったり、眉《まゆ》や口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は先刻《さっき》目撃した。最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼は疾《と》くに認めていた。けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、強《し》いて動かすまいと力《つ
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