在をわざと眼中に置かないようなこの眼遣《めづかい》の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から蚤取眼《のみとりまなこ》で、黒の中折帽を被《かぶ》った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに射《い》がけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間|余《あまり》をここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの考《かんがえ》がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕出《しで》かすか分らない人として何のために自分が覘《ねら》われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の後《うしろ》を西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く憚《はば》かった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝心《かんじん》の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝子窓《ガラスまど》を覗《のぞ》いて、そこに飾ってある天鵞絨《びろうど》の襟《えり》の着いた女の子のマントを眺《なが》める風をしながら、そっと後《うしろ》を振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように後《あと》から後から来る陰になって、白い襟巻《えりまき》も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最少《もうすこ》し観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物数奇《ものずき》を起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにして窺《うかが》うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。

        二十九
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