まれた恰好《かっこう》のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。
二十八
電車がまた二三台来た。そうして二三台共また敬太郎《けいたろう》の失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は今更《いまさら》気がついたように、頭の上に被《かぶ》さる黒い空を仰いで、苦々《にがにが》しく舌打《したうち》をした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、他《ひと》を騙《だま》すためにわざわざ拵《こし》らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋杖《ステッキ》も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌々《いまいま》しさの種になった。彼は暗い夜を欺《あざ》むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必竟《ひっきょう》自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興を覚《さ》ましながらまだそのくらい寝惚《ねぼ》けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿を嘲《あざ》ける記念《かたみ》だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先刻《さっき》の若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も人尋常《ひとなみ》より恰好《かっこう》よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を惹《ひ》いた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子の揃《そろ》った五本の指と、しなやかな革《かわ》で堅く括《くく》られた手頸《てくび》と、手頸の袖口《そでくち》の間から微《かす》かに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く一所《ひとところ》に立ち尽すものに、寒さは辛《つら》く当った。女は心持ち顋《あご》を襟巻《えりまき》の中に埋《うず》めて、俯目勝《ふしめがち》にじっとしていた。敬太郎は自分の存
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