の視力を使って常に女の方を注意していた。
 始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し潰《つぶ》されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺《こら》えた方が差引|得《とく》になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素振《そぶり》を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘《かさ》を広げる人のように、わざと彼の観察を避《よ》ける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露骨《むきだし》に女の方を見るのを慎《つつ》しんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡巡《しゅんじゅん》する気色《けしき》もなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓硝子《まどガラス》に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝珊瑚《えださんご》の置物だのを眺《なが》め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立《こういだて》をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
 女の容貌《ようぼう》は始めから大したものではなかった。真向《まむき》に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴々《はればれ》しい心持のする眸《ひとみ》を有《も》っていた。宝石商の電灯は今|硝子越《ガラスごし》に彼女《かのおんな》の鼻と、豊《ふっ》くらした頬の一部分と額とを照らして、斜《はす》かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓《りんかく》を与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包
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