ていさい》を重んずる須永のような男にできるはずがない。万一我慢してやってくれたところで、こっちから駆《か》けて行く間には、肝心《かんじん》の黒の中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》った男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。

        二十六

 決心はしたようなものの、それでは今立っている所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと成効《せいこう》を度外に置いて仕事にかかった不安を感ぜずにはいられなかった。彼は首を延ばすようにして、また東の停留所を望んだ。位地のせいか、向《むき》の具合か、それとも自分が始終|乗降《のりおり》に慣れている訳か、どうもそちらの方が陽気に見えた。尋ねる人も何だか向《むこう》で降りそうな心持がした。彼はもう一度見張るステーションを移そうかと思いながら、なおかつ決しかねてしばらく躊躇《ちゅうちょ》していた。するとそこへ江戸川行の電車が一台来てずるずるととまった。誰も降者《おりて》がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちにまた車を出そうとした。敬太郎《けいたろう》は錦町へ抜ける細い横町を背にして、眼の前の車台にはほとんど気のつかないほど、ここにいようかあっちへ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然|馳《か》け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除《の》けるようにして、ハンドルへ手をかけた運転手の台へ飛び上った。敬太郎の驚ろきがまだ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出してすでに動き始めた。飛び上がった男は硝子戸《ガラスど》の内へ半分|身体《からだ》を入れながら失敬しましたと云った。敬太郎はその男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。彼は敬太郎に当った拍子《ひょうし》に、敬太郎の持っていた洋杖《ステッキ》を蹴飛《けと》ばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。敬太郎は直《すぐ》曲《こご》んで洋杖を拾い上げようとした。彼はその時|蛇《へび》の頭が偶然|東向《ひがしむき》に倒れているのに気がついた。そうしてその頭の恰好《かっこう》を何となしに、方角を教える指標《フィンガーポスト》のように感じた。
「やっぱり東が好かろう」
 彼は早足に瀬戸物屋の前まで帰って来た。そこで本郷三丁目と
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