書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。彼は最初の二三台を親の敵《かたき》でも覘《ねら》うように怖《こわ》い眼つきで吟味《ぎんみ》した後《あと》、少し心に余裕《よゆう》ができるに連れて、腹の中がだんだん気丈《きじょう》になって来た。彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見傚《みな》して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人《いちにん》は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴《シンボル》のごとく振り分ける分別盛《ふんべつざか》りの中年者《ちゅうねんもの》であった。そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
 電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは権柄《けんぺい》ずくで上から伸《の》しかかって来る。敬太郎はどこの何物とも知れない男女《なんにょ》が聚《あつ》まったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す一分時《いっぷんじ》の争を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た所作《しょさ》に見えて来る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした先刻《さっき》の二時間を、充分|須永《すなが》と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、遥《はる》かに常識に適《かな》った遣口《やりくち》だと考え出した。彼がこの苦《にが》い気分を痛切に甞《な》めさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面に蒼《あお》く沈んで来た。陰鬱《いんうつ》な冬の夕暮を補なう瓦斯《ガス》と電気の光がぽつぽつそこらの店硝子《みせガラス》を彩《いろ》どり始めた。ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、廂髪《ひさしがみ》に結《い》った一人の若い女が立っていた。電車の乗降《のりおり》が始まるたびに、彼は注意の余波《なごり》を自分の左右に払っていたつ
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