地に帰ろうというつもりで、彼は足の向《むき》を更《か》えにかかった途端《とたん》に、南から来た一台がぐるりと美土代町《みとしろちょう》の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨《すがも》の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直《まっすぐ》に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先刻《さっき》彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後《あと》を跟《つ》けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見当《けんとう》がつかない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の距離《みちのり》を目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ覚束《おぼつか》ない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張り終《おお》せる手際《てぎわ》を要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。彼は自分の住居《すま》っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の迂闊《うかつ》を深く後悔した。
 彼は困却の余りふと思いついた窮策《きゅうさく》として、須永《すなが》の助力でも借りに行こうかと考えた。しかし時計はもう四時七分前に逼《せま》っていた。ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かい摘《つま》んで用事を呑《の》み込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。よしそのくらいの間《ま》は取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。それもこの人込の中だから、手を挙げたり手帛《ハンケチ》を振るぐらいではちょっと通じかねる。紛《まぎ》れもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う突飛《とっぴ》なよほどな場合でも体裁《
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