六間東へ下《くだ》ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入《い》った。ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取り紛《まぎ》れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また目標《めじるし》の鉄の柱を離れて、四辺《あたり》の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造《くらづくり》の瀬戸物屋があった。小さい盃《さかずき》のたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。大きな鉄製《かねせい》の鳥籠《とりかご》に、陶器でできた餌壺《えつぼ》をいくつとなく外から括《くく》りつけたのも、そこにぶら下がっていた。その隣りは皮屋であった。眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、緋羅紗《ひらしゃ》の縁《へり》を取ったのがこの店の重《おも》な装飾であった。敬太郎《けいたろう》は琥珀《こはく》に似たその虎の眼を深く見つめて立った。細長くって真白な皮でできた襟巻《えりまき》らしいものの先に、豆狸《まめだぬき》のような顔が付着しているのも滑稽《こっけい》に見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。そうして瑪瑙《めのう》で刻《ほ》った透明な兎《うさぎ》だの、紫水晶《むらさきずいしょう》でできた角形《かくがた》の印材だの、翡翠《ひすい》の根懸《ねがけ》だの孔雀石《くじゃくせき》の緒締《おじめ》だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の硝子窓《ガラスまど》を覗《のぞ》いた。
 敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工《からきざいく》の店先まで来た。その時|後《うしろ》から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、筋違《すじかい》に通を横切って細い横町の角にある唐物屋《とうぶつや》の傍《そば》へ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、先刻《さっき》のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこの角《かど》に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも万世橋《まんせいばし》の方から真直《まっすぐ》に進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの懸念《けねん》もなくなったから、そろそろ元の位
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