主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。彼は洋杖の頭の曲った角《かど》を、右の腋《わき》の下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。そこでいったん羽織の下から杖《つえ》を出して蛇《へび》の首をじっと眺《なが》めた。そうして袂《たもと》の手帛《ハンケチ》で上から下まで綺麗《きれい》に埃《ほこり》を拭いた。それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上に顋《あご》を載《の》せた。そうしてやっと今一段落ついた自分の努力を顧《かえり》みて、ほっと一息|吐《つ》いた。同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。考えて見ると、これほど骨を折って、偸《ぬす》むように持ち出した洋杖が、どうすれば眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような他人《ひと》のような、長いような短かいような、出るような這入《はい》るようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないで携《たず》さえているというまでであった。この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうと袖《そで》に隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとの間《ま》、瘧《ぎゃく》を振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。そうして頭の毛穴から湯気の立つほど業《ごう》を煮やした先刻《さっき》の努力を気恥かしくも感じた。彼は自分で自分の所作《しょさ》を紛《まぎ》らす為《ため》に、わざと洋杖を取り直して、電車の床《ゆか》をとんとんと軽く叩《たた》いた。
やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほど間《ま》があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。そこには交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍《そば》から、真直《まっすぐ》に南へ走る大通りと、緩《ゆる》い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺《なが》めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。
二十五
赤い郵便函《ポスト》から五
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