越《ガラスごし》に障子《しょうじ》の中を覗《のぞ》いていると、主人の頭の上で忽然《こつぜん》呼鈴《ベル》が烈《はげ》しく鳴り出した。主人は仰向《あおむ》いて番号を見ながら、おい誰かいないかねと次《つぎ》の間《ま》へ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分の室《へや》へ帰って来た。
 彼はわざわざ戸棚《とだな》を開けて、行李《こり》の上に投げ出してあるセルの袴《はかま》を取り出した。彼はそれを穿《は》くとき、腰板《こしいた》を後《うしろ》に引き摺《ず》って、室《へや》の中を歩き廻った。それから足袋《たび》を脱《ぬ》いで、靴下に更《か》えた。これだけ身装《みなり》を改めた上、彼はまた三階を下りた。居間を覗《のぞ》くと細君の姿は依然として見えなかった。下女もそこらにはいなかった。呼鈴《ベル》も今度は鳴らなかった。家中ひっそり閑《かん》としていた。ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢に靠《もた》れて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所から斜《はす》に主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。主人は案《あん》の上《じょう》、「御出かけで」と挨拶《あいさつ》した。そうして例《いつも》の通り下女を呼んで下駄箱《げたばこ》にしまってある履物《はきもの》を出させようとした。敬太郎は主人一人の眼を掠《か》すめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られては敵《かな》わないと思って、いや宜《よろ》しいと云いながら、自分で下駄箱の垂《たれ》を上げて、早速靴を取りおろした。旨《うま》い具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
「ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を穿《は》いてしまったんで、また上《あが》るのが面倒だから」
 敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。主人は自分よりほかのものでは到底《とても》弁じない用事なので、「はあようがす」と云って気《き》さくに立って梯子段《はしごだん》を上《のぼ》って行った。敬太郎はそのひまに例の洋杖《ステッキ》を傘入《かさいれ》から抽《ぬ》き取ったなり、抱《だ》き込むように羽織の下へ入れて、
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