な冒険譚《ぼうけんだん》の主人公であった。まだ海豹島《かいひょうとう》へ行って膃肭臍《おっとせい》は打っていないようであるが、北海道のどこかで鮭《さけ》を漁《と》って儲《もう》けた事はたしかであるらしい。それから四国辺のある山から安質莫尼《アンチモニー》が出ると触れて歩いて、けっして出なかった事も、当人がそう自白するくらいだから事実に違ない。しかし最も奇抜なのは呑口会社《のみぐちがいしゃ》の計画で、これは酒樽《さかだる》の呑口を作る職人が東京にごく少ないというところから思いついたのだそうだが、せっかく大阪から呼び寄せた職人と衝突したために成立しなかったと云って彼はいまだに残念がっている。
儲口《もうけぐち》を離れた普通の浮世話になると、彼はまた非常に豊富な材料の所有者であるという事を容易に証拠立てる。筑摩川《ちくまがわ》の上流の何とかいう所から河を隔てて向うの山を見ると、巌《いわ》の上に熊がごろごろ昼寝をしているなどはまだ尋常の方なので、それが一層色づいて来ると、信州|戸隠山《とがくしやま》の奥の院というのは普通の人の登れっこない難所だのに、それを盲目《めくら》が天辺《てっぺん》まで登ったから驚ろいたなどという。そこへ御参《おまいり》をするには、どんなに脚《あし》の達者なものでも途中で一晩明かさなければならないので、森本も仕方なしに五合目あたりで焚火《たきび》をして夜の寒さを凌《しの》いでいると、下から鈴《れい》の響が聞えて来たから、不思議に思っているうちに、その鈴の音《ね》がだんだん近くなって、しまいに座頭《ざとう》が上《のぼ》って来たんだと云う。しかもその座頭が森本に今晩はと挨拶《あいさつ》をしてまたすたすた上って行ったと云うんだから、余り妙だと思ってなおよく聞いて見ると、実は案内者が一人ついていたのだそうである。その案内者の腰に鈴を着けて、後《あと》から来る盲者《めくら》がその鈴の音を頼りに上る事ができるようにしてあったのだと説明されて、やや納得《なっとく》もできたが、それにしても敬太郎には随分意外な話である。が、それがもう少し高《こう》じると、ほとんど妖怪談《ようかいだん》に近い妙なものとなって、だらしのない彼の口髭《くちひげ》の下から最も慇懃《いんぎん》に発表される。彼が耶馬渓《やばけい》を通ったついでに、羅漢寺《らかんじ》へ上って、日暮に一本道を急いで
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