ったが、躊躇《ちゅうちょ》すると思いの外、あたかも自分の部屋へでも這入るような無雑作《むぞうさ》な態度で、敬太郎の後に跟《つ》いて来た。そうして、
「あなたの室《へや》から見た景色はいつ見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、手摺付《てすりつき》の縁板の上へ濡手拭《ぬれてぬぐい》を置いた。
三
敬太郎《けいたろう》はこの瘠《や》せながら大した病気にも罹《かか》らないで、毎日新橋の停車場《ステーション》へ行く男について、平生から一種の好奇心を有《も》っていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿|住居《ずまい》をして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話した試《ためし》もないので、敬太郎には一切がX《エックス》である。たまたま人を送って停車場へ行く場合もあるが、そんな時にはつい混雑に取《と》り紛《まぎ》れて、停車場と森本とをいっしょに考えるほどの余裕《よゆう》も出ず、そうかと云って、森本の方から自己の存在を思い起させるように、敬太郎の眼につくべき所へ顔を出す機会も起らなかった。ただ長い間同じ下宿に立籠《たてこも》っているという縁故だか同情だかが本《もと》で、いつの間にか挨拶《あいさつ》をしたり世間話をする仲になったまでである。
だから敬太郎の森本に対する好奇心というのは、現在の彼にあると云うよりも、むしろ過去の彼にあると云った方が適当かも知れない。敬太郎はいつか森本の口から、彼が歴乎《れっき》とした一家の主人公であった時分の話を聞いた。彼の女房の話も聞いた。二人の間にできた子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼《がき》が死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ。山神《さんじん》の祟《たたり》には実際恐れを作《な》していたんですからね」と云った彼の言葉を、敬太郎はいまだに覚えている。その時しかも山神が分らなくって、何だと聞き返したら、山の神の漢語じゃありませんかと教えられたおかしさまでまだ記憶に残っている。それらを思い出しても、敬太郎から見ると、すべて森本の過去には一種ロマンスの臭《におい》が、箒星《ほうきぼし》の尻尾《しっぽ》のようにぼうっとおっかぶさって怪しい光を放っている。
女についてできたとか切れたとかいう逸話以外に、彼はまたさまざま
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