て、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た。そうして、
「たまに朝湯へ来ると綺麗《きれい》で好い心持ですね」と云った。
「ええ。あなたのは洗うんでなくって、本当に湯に這入《はい》るんだからことにそうだろう。実用のための入湯《にゅうとう》でなくって、快感を貪《むさ》ぼるための入浴なんだから」
「そうむずかしい這入り方でもないんでしょうが、どうもこんな時に身体なんか洗うな億劫《おっくう》でね。ついぼんやり浸《つか》ってぼんやり出ちまいますよ。そこへ行くと、あなたは三層倍も勤勉《まめ》だ。頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。御負《おまけ》に楊枝《ようじ》まで使って。あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった」
 二人は連立って湯屋の門口《かどぐち》を出た。森本がちょっと通りまで行って巻紙を買うからというので、敬太郎もつき合う気になって、横丁を東へ切れると、道が急に悪くなった。昨夕《ゆうべ》の雨が土を潤《ふや》かし抜いたところへ、今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり蹴上《けあ》げたりした泥の痕《あと》を、二人は厭《いと》うような軽蔑《けいべつ》するような様子で歩いた。日は高く上《のぼ》っているが、地面から吸い上げられる水蒸気はいまだに微《かす》かな波動を地平線の上に描《えが》いているらしい感じがした。
「今朝の景色《けしき》は寝坊《ねぼう》のあなたに見せたいようだった。何しろ日がかんかん当ってる癖《くせ》に靄《もや》がいっぱいなんでしょう。電車をこっちから透《す》かして見ると、乗客がまるで障子《しょうじ》に映る影画《かげえ》のように、はっきり一人《ひとり》一人見分けられるんです。それでいて御天道様《おてんとさま》が向う側にあるんだからその一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんで、すこぶる奇観でしたよ」
 森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入《はい》って巻紙と状袋で膨《ふく》らました懐《ふところ》をちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。上靴《スリッパー》の踵《かかと》を鳴らして階段《はしごだん》を二つ上《のぼ》り切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、
「さあどうぞ」と森本を誘《いざな》った。森本は、
「もう直《じき》午飯《ひる》でしょう」と云
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