、杉並木の間を下りて来ると、突然一人の女と擦《す》れ違った。その女は臙脂《べに》を塗って白粉《おしろい》をつけて、婚礼に行く時の髪を結《ゆ》って、裾模様《すそもよう》の振袖《ふりそで》に厚い帯を締《し》めて、草履穿《ぞうりばき》のままたった一人すたすた羅漢寺《らかんじ》の方へ上《のぼ》って行った。寺に用のあるはずはなし、また寺の門はもう締《し》まっているのに、女は盛装したまま暗い所をたった一人で上って行ったんだそうである。――敬太郎はこんな話を聞くたびにへえーと云って、信じられ得ない意味の微笑を洩《も》らすにかかわらず、やっぱり相当の興味と緊張とをもって森本の弁口《べんこう》を迎えるのが例であった。

        四

 この日も例によって例のような話が出るだろうという下心から、わざと廻り路までしていっしょに風呂《ふろ》から帰ったのである。年こそそれほど取っていないが、森本のように、大抵な世間の関門を潜《くぐ》って来たとしか思われない男の経歴談は、この夏学校を出たばかりの敬太郎《けいたろう》に取っては、多大の興味があるのみではない、聞きようしだいで随分利益も受けられた。
 その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌《い》む浪漫趣味《ロマンチック》の青年であった。かつて東京の朝日新聞に児玉音松《こだまおとまつ》とかいう人の冒険談が連載された時、彼はまるで丁年《ていねん》未満の中学生のような熱心をもって毎日それを迎え読んでいた。その中《うち》でも音松君が洞穴の中から躍《おど》り出す大蛸《おおだこ》と戦った記事を大変面白がって、同じ科の学生に、君、蛸の大頭を目がけて短銃《ピストル》をポンポン打つんだが、つるつる滑《すべ》って少しも手応《てごたえ》がないというじゃないか。そのうち大将の後からぞろぞろ出て来た小蛸《こだこ》がぐるりと環《わ》を作って彼を取り巻いたから何をするのかと思うと、どっちが勝つか熱心に見物しているんだそうだからねと大いに乗気で話した事がある。するとその友達が調戯《からかい》半分に、君のような剽軽《ひょうきん》ものはとうてい文官試験などを受けて地道《じみち》に世の中を渡って行く気になるまい、卒業したら、いっその事思い切って南洋へでも出かけて、好きな蛸狩《たこがり》でもしたらどうだと云ったので、それ以来「田川《たがわ》の蛸狩」という言葉が友達間にだいぶ流行《はや》り
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