たけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけ隔《へだ》たった別世界の消息なら、固《もと》より論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用の利《き》く点もあるので、敬太郎はそこに微《かす》かな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」
「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」
「災難ですか」
「災難でもないでしょうが、気をつけないとやり損《そこ》ないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」
十九
敬太郎《けいたろう》の好奇心は少し鋭敏になった。
「全体どんな性質《たち》の事ですか」
「それは起って見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではないようです」
「じゃどうして失敗《しくじ》らない工夫をして好いか、それも分らないでしょうね」
「分らない事もありませんが、もし御望みなら、もう一遍|占《うら》ないを立て直して見て上げても宜《よ》うござんす」
敬太郎は、では御頼み申しますと云わない訳に行かなかった。婆さんはまた繊細《きゃしゃ》な指先を小器用に動かして、例の文銭を並べ更《か》えた。敬太郎から云えば先《せん》の並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんにはそこに何か重大の差別があるものと見えて、その一枚を引っくり返すにも軽率に手は下さなかった。ようやく九枚をそれぞれ念入に片づけた後《あと》で、婆さんは敬太郎に向って「大体分りました」と云った。
「どうすれば好いんですか」
「どうすればって、占ないには陰陽《いんよう》の理で大きな形が現われるだけだから、実地は各自《めいめい》がその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考えるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分のようなまた他人《ひと》のような、長いようなまた短かいような、出るようなまた這入《はい》るようなものを待っていらっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすれば旨《うま》く行きます」
敬太郎は煙《けむ》に巻かれざるを得なかった。いくら大きな形が陰陽の理で現われたにしたところで、これじゃ方角さえ立たない霧《きり》のようなものだから、たとい嘘《うそ》でも本当でも、もう少し切りつめた応用の利くところを是非云わせようと思って、二三押問答をして見
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