くじ》るような事はないでしょうか」
「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」
 これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという故意《わざ》とらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」
「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただ最《もう》少し先まで御出《おで》なさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」
 こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って引込《ひっこ》む訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」
 婆さんはまた黙って文銭《ぶんせん》の上を眺《なが》めていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ同《おん》なじですね」と答えた。そうして先刻《さっき》裁縫《しごと》をしていた時に散らばした糸屑《いとくず》を拾って、その中から紺《こん》と赤の絹糸のかなり長いのを択《よ》り出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗《きれい》に縒《よ》り始めた。敬太郎はただ手持無沙汰《てもちぶさた》の徒事《いたずら》とばかり思って、別段意にも留《とど》めなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに縒《よ》り上げて、文銭の上に載《の》せた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら派手《はで》な赤と地味な紺《こん》が。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと駆《か》け出してやり損《そこ》ない勝《がち》のものですが、あなたのは今のところこの縒糸《よりいと》みたように丁度《ちょうど》好い具合に、いっしょに絡《から》まり合っているようですから御仕合せです」
 絹糸の喩《たとえ》は何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、嬉《うれ》しいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で地道《じみち》を踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉を呑《の》み込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。始めから敬太郎は占ないの一言《いちごん》で、是非共右か左へ片づけなければならないとまで切《せつ》に思いつめていた訳でもなかっ
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