たが、いっこう埒《らち》が明かなかった。敬太郎はとうとうこの禅坊主の寝言《ねごと》に似たものを、手拭《てぬぐい》に包《くる》んだ懐炉《かいろ》のごとく懐中させられて表へ出た。おまけに出がけに七色唐辛子《なないろとうがらし》を二袋買って袂《たもと》へ入れた。
翌日彼は朝飯《あさはん》の膳《ぜん》に向って、煙の出る味噌汁椀《みそしるわん》の蓋《ふた》を取ったとき、たちまち昨日《きのう》の唐辛子を思い出して、袂《たもと》から例の袋を取り出した。それを十二分に汁《しる》の上に振りかけて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ましたが、婆さんの云わゆる「陰陽の理によって現われた大きな形」と頭の中に呼び起して見ると、まだ漠然《ばくぜん》と瓦斯《ガス》のごとく残っていた。しかし手のつけようのない謎《なぞ》に気を揉《も》むほど熱心な占《うら》ない信者でもないので、彼はどうにかそれを解釈して見たいと焦心《あせ》る苦悶《くもん》を知らなかった。ただその分らないところに妙な趣《おもむき》があるので、忘れないうちに、婆さんの云った通りを紙片《かみぎれ》に書いて机の抽出《ひきだし》へ入れた。
もう一遍田口に会う手段を講じて見る事の可否は、昨日《きのう》すでに婆さんの助言《じょごん》で断定されたものと敬太郎は解釈した。けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。彼は須永《すなが》へ行って彼の叔父がすでに大阪から帰ったかどうか尋ねて見ようかと考えたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を圧迫しているので、足を運ぶ勇気がちょっと出なかった。電話もこの際利用しにくかった。彼はやむを得ず、手紙で用を弁ずる事にした。彼はせんだって須永の母に話したとほぼ同様の顛末《てんまつ》を簡略に書いた後で、田口がもう旅行から帰ったかどうかを聞き合わせて、もし帰ったなら御多忙中はなはだ恐れ入るけれども、都合して会ってくれる訳には行くまいか、こっちはどうせ閑《ひま》な身体《からだ》だから、いつでも指定されて時日に出られるつもりだがと、この間の権幕《けんまく》は、綺麗《きれい》に忘れたような口ぶりを見せた。敬太郎はこの手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも予想した。ところが二日立っても三日立っても何の挨拶《あいさつ》もないので、少し不安の念に悩まされ出
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