なかった。それで二三歩先へ出て、薬種店の方を覗《のぞ》くと、八ツ目鰻《めうなぎ》の干したのも釣るしてなければ、大きな亀の甲も飾ってないし、人形の腹をがらん胴にして、五色の五臓を外から見えるように、腹の中の棚《たな》に載《の》せた古風の装飾もなかった。一本寺《いっぽんじ》の隠居に似た髯《ひげ》のある爺さんは固《もと》より坐っていなかった。彼は再び立ち戻って、身の上判断|文銭占《ぶんせんうら》ないという看板のかかった入口から暖簾《のれん》を潜《くぐ》って内へ入った。裁縫《しごと》をしていた婆さんは、針の手をやめて、大きな眼鏡《めがね》の上から睨《にら》むように敬太郎を見たが、ただ一口、占《うら》ないですかと聞いた。敬太郎は「ええちょっと見て貰《もら》いたいんだが、御留守《おるす》のようですね」と云った。すると婆さんは、膝《ひざ》の上のやわらか物を隅《すみ》の方へ片づけながら、御上りなさいと答えた。敬太郎は云われる通り素直に上って見ると、狭いけれども居心地の悪いほど汚《よご》れた室《へや》ではなかった。現に畳などは取り替え立てでまだ新らしい香《か》がした。婆さんは煮立った鉄瓶《てつびん》の湯を湯呑《ゆのみ》に注《つ》いで、香煎《こうせん》を敬太郎の前に出した。そうして昔は薬箱でも載せた棚らしい所に片づけてあった小机を取りおろしにかかった。その机には無地の羅紗《らしゃ》がかけてあったが、婆さんはそれをそのまま敬太郎の正面に据《す》えて、そうして再び故《もと》の座に帰った。
「占《うら》ないは私がするのです」
敬太郎は意外の感に打たれた。この小《ち》いさい丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った。黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》のかかった着物の上に、地味な縞《しま》の羽織を着た、一心に縫物をしている、純然家庭的の女が、自分の未来に横たわる運命の予言者であろうとは全く想像のほかにあったのである。その上彼はこの婦人の机の上に、筮竹《ぜいちく》も算木《さんぎ》も天眼鏡《てんがんきょう》もないのを不思議に眺《なが》めた。婆さんは机の上に乗っている細長い袋の中からちゃらちゃらと音をさせて、穴の開《あ》いた銭《ぜに》を九つ出した。敬太郎は始めてこれが看板に「文銭占ない」とある文銭なるものだろうと推察したが、さてこの九枚の文銭が、暗い中で自分を操《あやつ》っている運命の糸と、どんな関係を有《も》っ
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