ら》ない者《しゃ》などのいる所ではないと今更《いまさら》のようにその雑沓《ざっとう》に驚ろいた。せめて御賓頭顱《おびんずる》でも撫《な》でて行こうかと思ったが、どこにあるか忘れてしまったので、本堂へ上《あが》って、魚河岸《うおがし》の大提灯《おおぢょうちん》と頼政《よりまさ》の鵺《ぬえ》を退治《たいじ》ている額だけ見てすぐ雷門《かみなりもん》を出た。敬太郎の考えではこれから浅草橋へ出る間には、一軒や二軒の易者はあるだろう。もし在《あ》ったら何でも構わないから入る事にしよう。あるいは高等工業の先を曲って柳橋の方へ抜けて見ても好いなどと、まるで時分どきに恰好《かっこう》な飯屋《めしや》でも探す気で歩いていた。ところがいざ探すとなると生憎《あいにく》なもので、平生《ふだん》は散歩さえすればいたるところに神易《しんえき》の看板がぶら下っている癖に、あの広い表通りに門戸を張っている卜者《うらない》はまるで見当らなかった。敬太郎はこの企図《くわだて》もまた例によって例のごとく、突き抜けずに中途でおしまいになるのかも知れないと思って少し失望しながら蔵前《くらまえ》まで来た。するとやっとの事で尋ねる商売の家《うち》が一軒あった。細長い堅木の厚板に、身の上判断と割書《わりがき》をした下に、文銭占《ぶんせんうら》ないと白い字で彫って、そのまた下に、漆《うるし》で塗った真赤《まっか》な唐辛子《とうがらし》が描《か》いてある。この奇体な看板がまず敬太郎の眼を惹《ひ》いた。
十七
よく見るとこれは一軒の生薬屋《きぐすりや》の店を仕切って、その狭い方へこざっぱりした差掛《さしかけ》様のものを作ったので、中に七色唐辛子《なないろとうがらし》の袋を並べてあるから、看板の通りそれを売る傍《かたわ》ら、占ないを見る趣向に違ない。敬太郎《けいたろう》はこう観察して、そっと餡転餅屋《あんころもちや》に似た差掛の奥を覗《のぞ》いて見ると、小作《こづく》りな婆さんがたった一人|裁縫《しごと》をしていた。狭い室《へや》一つの住居《すまい》としか思われないのに、肝心《かんじん》の易者の影も形も見えないから、主人は他行中《たぎょうちゅう》で、細君が留守番をしているところかとも思ったが、店先の構造から推すと、奥は生薬屋の方と続いているかも知れないので、一概に留守と見切《みきり》をつける訳にも行か
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