思って、後《あと》から跟《つ》いて行こうとすると、父は敬太郎に向って、御前はそこにいて、時計を見ていろ、そうして十二時が鳴り出したら、大きな声を出して合図をしてくれ、すると御父さんがあの乾《いぬい》に当る梅の根っこを掘り始めるからと云いつけた。敬太郎は子供心にまた例の家相だと思って、時計がちんと鳴り出すや否や命令通り、十二時ですようと大きな声で叫んだ。それで、その場は無事に済んだが、あれほど正確に鍬《くわ》を下ろすつもりなら、肝心《かんじん》の時計が狂っていないようにあらかじめ直しておかなくてはならないはずだのにと敬太郎は父の迂闊《うかつ》をおかしく思った。学校の時計と自分の家《うち》のとはその時二十分近く違っていたからである。ところがその後《ご》摘草《つみくさ》に行った帰りに、馬に蹴《け》られて土堤《どて》から下へ転がり落ちた事がある。不思議に怪我《けが》も何もしなかったのを、御祖母《おばあ》さんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭《おかげ》だこれ御覧《ごらん》と云って、馬の繋《つな》いであった傍《そば》にある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、涎掛《よだれかけ》だけが残っていた。敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。その雲が身体《からだ》の具合や四辺《あたり》の事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した今日《こんにち》に至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである。
こういう訳《わけ》で、彼は明治の世に伝わる面白い職業の一つとして、いつでも大道占《だいどううらな》いの弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》を眺《なが》めていた。もっとも金を払って筮竹《ぜいちく》の音を聞くほどの熱心はなかったが、散歩のついでに、寒い顔を提灯の光に映した女などが、悄然《しょんぼり》そこに立っているのを見かけると、この暗い影を未来に投げて、思案に沈んでいる憐《あわ》れな人に、易者《えきしゃ》がどんな希望と不安と畏怖《いふ》と自信とを与えるだろうという好奇心に惹《ひ》かされて、面白半分、そっと傍へ寄って、陰の方から立聞《たちぎき》をする事がしばしばあった。彼の友の某《なにがし》が、自分の脳力に悲観して、試験を受けようか学校をやめようかと思い煩《わずら》っている頃、ある人が旅行のついでに、善光寺如来《ぜんこうじに
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