勝利を冀《こひねが》ふ人間の精神を現すといふ点に於て「力」は高尚なものである。吾々はもう権利と「力」とを対立させる事を已《や》めなければ行《い》けない。権利がなくつて負けるのはまだしもだが、権利がある上に負けるのは二重の敗北である。最大の損害である。無上の不幸である」
 冗漫と難渋とを恐れて、わざと大意|丈《だけ》を抄訳した此《この》一節を読んで見ても、相手の軍国主義が何《ど》んな風に仏蘭西の思想界の一部に食ひ入りつゝあるかが解るだらう。(つゞく)

       五 軍国主義(四)

 すると戦争のまだ落着しないうちから、年来|独逸《ドイツ》によつて標榜《へうばう》された軍国的精神なるものは既に敵国を動かし始めたのである。遠い東の果《はて》に住んでゐる吾々の視聴を刺戟する位《くらゐ》強く彼等の心を動かし始めたのである。さうして此《この》影響はたとひ今度の戦争が片付いても、容易に彼等の脳裏から拭《ぬぐ》ひ去る事が出来ないのである。単に過去の経験を痛切に記憶すべく余儀なくされた結果として拭ひ去る事が出来ないばかりでなく、未来に対する配慮からしても到底|此《この》影響を超越する訳《わけ》には行かないのである。
 待対《たいたい》世界の凡《すべ》てのものが悉《こと/″\》く条件つきで其《その》存在を許されてゐる以上、向後《かうご》に回復されべき欧洲の平和にも、亦《また》絶対の権威が伴つてゐない事だけは誰の眼にも明かである。然《しか》し彼等が其《その》平和の必要条件として、それとは全く両立しがたい腕力の二字を常に念頭に置くべく強《し》ひられるに至つては、彼等と雖《いへど》も今更ながら天のアイロニーに驚かざるを得まい。現代に所謂《いはゆる》列強の平和とはつまり腕力の平均に外ならないといふ平凡な理窟を彼等は又新しく天から教へられたのである。土俵の真中で四つに組んで動かない力士は、外観上|至極《しごく》平和さうに見える。今迄彼等の享有《きやういう》した平和も、実はそれ程に高価で、又それ程に苦痛性を帯びてゐたのである。しかも彼等は相撲取のやうにそれを自覚してゐなかつたために突然罰せられた。換言すれば生存上腕力の必要を向後《かうご》当分の間《あひだ》忘れる事の出来ないやうに遣付《やつつ》けられた。軍国主義が今迄彼等に及ぼした、又|是《これ》から先彼等に及ぼすべき影響は決して浅いもので
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