これも全熟だ。――姉さん、これは、うで玉子じゃないか」と今度は碌さんが下女にむかう。
「ねえ」
「そうなのか」
「ねえ」
「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん横手《よこで》を打つ。
「ハハハハ単純なものだ」
「まるで落《おと》し噺《ばな》し見たようだ」
「間違いましたか。そちらのも煮て参じますか」
「なにこれでいいよ。――姉さん、ここから、阿蘇まで何里あるかい」と圭さんが玉子に関係のない方面へ出て来た。
「ここが阿蘇でござりまっす」
「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう二三日《にさんち》逗留《とうりゅう》して、すぐ熊本へ引き返そうじゃないか」と碌さんがすぐ云う。
「どうぞ、いつまでも御逗留なさいまっせ」
「せっかく、姉さんも、ああ云って勧めるものだから、どうだろう、いっそ、そうしたら」と碌さんが圭さんの方を向く。圭さんは相手にしない。
「ここも阿蘇だって、阿蘇郡なんだろう」とやはり下女を追窮している。
「ねえ」
「じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい」
「御宮までは三里でござりまっす」
「山の上までは」
「御宮から二里でござりますたい」
「山の上はえらいだろうね」と碌さんが突然飛び出してくる。
「ねえ」
「御前《おまえ》登った事があるかい」
「いいえ」
「じゃ知らないんだね」
「いいえ、知りまっせん」
「知らなけりゃ、しようがない。せっかく話を聞こうと思ったのに」
「御山へ御登りなさいますか」
「うん、早く登りたくって、仕方がないんだ」と圭さんが云うと、
「僕は登りたくなくって、仕方がないんだ」と碌さんが打《ぶ》ち壊《こ》わした。
「ホホホそれじゃ、あなただけ、ここへ御逗留なさいまっせ」
「うん、ここで寝転《ねころ》んで、あのごうごう云う音を聞いている方が楽《らく》なようだ。ごうごうと云やあ、さっきより、だいぶ烈《はげ》しくなったようだぜ、君」
「そうさ、だいぶ、強くなった。夜のせいだろう」
「御山が少し荒れておりますたい」
「荒れると烈しく鳴るのかね」
「ねえ。そうしてよな[#「よな」に傍点]がたくさんに降って参りますたい」
「よな[#「よな」に傍点]た何だい」
「灰でござりまっす」
 下女は障子をあけて、椽側《えんがわ》へ人指《ひとさ》しゆびを擦《す》りつけながら、
「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。
「なるほど、始終《しじゅう》降ってるんだ。きのうは、こんなじゃなかったね」と圭さんが感心する。
「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」
「おい君、いくら荒れても登る気かね。荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか」
「荒れればなお愉快だ。滅多《めった》に荒れたところなんぞが見られるものじゃない。荒れる時と、荒れない時は火の出具合が大変違うんだそうだ。ねえ、姉さん」
「ねえ、今夜は大変赤く見えます。ちょと出て御覧なさいまっせ」
 どれと、圭さんはすぐ椽側へ飛び出す。
「いやあ、こいつは熾《さかん》だ。おい君早く出て見たまえ。大変だよ」
「大変だ? 大変じゃ出て見るかな。どれ。――いやあ、こいつは――なるほどえらいものだね――あれじゃとうてい駄目だ」
「何が」
「何がって、――登る途中で焼き殺されちまうだろう」
「馬鹿を云っていらあ。夜だから、ああ見えるんだ。実際昼間から、あのくらいやってるんだよ。ねえ、姉さん」
「ねえ」
「ねえかも知れないが危険だぜ。ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ」と碌さんは、自分の頬《ほっ》ぺたを撫《な》で廻す。
「大袈裟《おおげさ》な事ばかり云う男だ」
「だって君の顔だって、赤く見えるぜ。そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。あの青い葉が一面に、こう照らされているじゃないか」
「嘘《うそ》ばかり、あれは星のひかりで見えるのだ」
「星のひかりと火のひかりとは趣《おもむき》が違うさ」
「どうも、君もよほど無学だね。君、あの火は五六里先きにあるのだぜ」
「何里先きだって、向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか」と碌さんは向《むこう》をゆびさして大きな輪を指の先で描《えが》いて見せる。
「よるだもの」
「夜だって……」
「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。
「人格にかかわるかね。人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」
「まだあんな事を云っている。――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。ねえ姉さん。あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」
「ねえい」
「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を覗《のぞ》き込む。
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登っちゃ、男は是非《ぜひ》登る訳《わけ》かな。飛んだ事になったもんだ」
「ともかくも、あしたは六時に起きて……」
「もう分ったよ」
 言い棄《す》てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然《もくねん》と、眉《まゆ》を軒《あ》げて、奈落《ならく》から半空に向って、真直《まっすぐ》に立つ火の柱を見詰めていた。

        四

「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭《けい》さんが振り返る。
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入《はい》らずに左へ廻れと教えたぜ」
「饂飩屋《うどんや》の爺《じい》さんがか」と碌《ろく》さんはしきりに胸を撫《な》で廻す。
「そうさ」
「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」
「なぜ」
「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡《ふりょうけん》だ」
「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥《はる》かに尊《たっ》といさ」
「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は性《しょう》に合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、いくら饂飩屋の亭主を恨《うら》んでも後《あと》の祭《まつ》りだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」
「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」
「阿蘇《あそ》の火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々|剣呑《けんのん》になって来たぜ」
「なに、大丈夫だ。天祐《てんゆう》があるんだから」
「どこに」
「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」
「どうも君は自信家だ。剛健党《ごうけんとう》になるかと思うと、天祐派《てんゆうは》になる。この次ぎには天誅組《てんちゅうぐみ》にでもなって筑波山《つくばさん》へ立て籠《こも》るつもりだろう」
「なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」
「いつそんな目に逢《あ》ったんだい」
「いつでもいいさ。桀紂《けっちゅう》と云えば古来から悪人として通《とお》り者《もの》だが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚く被《かぶ》ってるから小憎《こにく》らしい」
「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似《まね》がしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳《うとく》の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩《はい》は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十|把一《ぱひ》とからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様《まっさかさま》に地獄の下へ落しちまったら」
「今に落としてやる」と圭さんは薄黒く渦巻《うずま》く煙りを仰いで、草鞋足《わらじあし》をうんと踏張《ふんば》った。
「大変な権幕《けんまく》だね。君、大丈夫かい。十把一とからげを放《ほう》り込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ」
「あの音は壮烈だな」
「足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いて見たまえ」
「どんなだい」
「非常な音だ。たしかに足の下がうなってる」
「その割に煙りがこないな」
「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」
「樹《き》が多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう」
 しばらくは雑木林《ぞうきばやし》の間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲が善《よ》くても並んで歩行《ある》く訳には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々《ゆうゆう》と振って先へ行く。碌さんは小さな体躯《からだ》をすぼめて、小股《こまた》に後《あと》から尾《つ》いて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。
 路は左右に曲折して爪先上《つまさきあが》りだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下りる人は一人もない。上《あが》るものにも全く出合わない。ただ所々に馬の足跡がある。たまに草鞋の切れが茨《いばら》にかかっている。そのほかに人の気色《けしき》はさらにない、饂飩腹《うどんばら》の碌さんは少々心細くなった。
 きのうの澄み切った空に引き易《か》えて、今朝宿を立つ時からの霧模様《きりもよう》には少し掛念《けねん》もあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇《あそ》の社《やしろ》までは漕《こ》ぎつけた。白木《しらき》の宮に禰宜《ねぎ》の鳴らす柏手《かしわで》が、森閑《しんかん》と立つ杉の梢《こずえ》に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額《ひたい》に落ちた。饂飩《うどん》を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡《なび》いた頃から、午過《ひるす》ぎは雨かなとも思われた。
 雑木林を小半里《こはんみち》ほど来たら、怪しい空がとうとう持ち切れなくなったと見えて、梢《こずえ》にしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。あとから、すぐ新しい音が耳を掠《かす》めて、翻《ひるが》える木《こ》の葉《は》と共にまた北の方へ走る。碌さんは首を縮めて、えっと舌打ちをした。
 一時間ほどで林は尽きる。尽きると云わんよりは、一度に消えると云う方が適当であろう。ふり返る、後《うしろ》は知らず、貫《つらぬ》いて来た一筋道のほかは、東も西も茫々《ぼうぼう》たる青草が波を打って幾段となく連《つら》なる後《あと》から、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる。噴火口こそ見えないが、煙りの出るのは、つい鼻の先である。
 林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道《おおにゅうどう》の圭さんが空を仰いで立っている。蝙蝠傘《こうもり》は畳んだまま、帽子さえ、被《かぶ》らずに毬栗頭《いがぐりあたま》をぬっくと草から上へ突き出して地形を見廻している様子だ。
「おうい。少し待ってくれ」
「おうい。荒れて来たぞ。荒れて来たぞうう。しっかりしろう」
「しっかりするから、少し待ってくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかを這《は》い上がる。ようやく追いつく碌さんを待ち受けて、
「おい何をぐずぐずしているんだ」と圭さんが遣《や》っつける。
「だから饂飩じゃ駄目だと云ったんだ。ああ苦しい。――おい君の顔はどうしたんだ。真黒だ」
「そうか、君のも真黒だ」
 圭さんは、無雑作《むぞうさ》に白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》で、頭から顔を撫《な》で廻す。碌さんは腰から、ハンケチを出す。
「なるほど、拭《ふ》くと、着物がどす黒くなる」
「僕のハンケチも、こんなだ」
「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を曝《さら》しながら、空模様を見廻す。
「よな[#「よな」に傍点]だ。よな[#「よな」に傍点]が雨に溶《と》けて降ってくるんだ。そら、その薄《すすき》の上
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