「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも何《なんに》も知らないね」
「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」
「何だい」
「相撲取《すもうとり》だ」
「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦《だいきょうえつ》である。
「そんなにおかしいか」
「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」
「そんなに有名な男か」
「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」
「そら、落ち行く先きは九州|相良《さがら》って云うじゃないか」
「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」
「困った男だな」
「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫《ごう》も僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路《やまみち》が苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」
「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい叶《かな》いっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」
「君は第一平生から惰弱《だじゃく》でいけない。ちっとも意志がない」
「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩《うどん》に逢《あ》った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」
「ハハハハつまらん事を云っていらあ」
「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」
「こんなに黒くってもかい」
「黒い白いは別として、豆腐屋は大概|箚青《ほりもの》があるじゃないか」
「なぜ」
「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」
「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな愚《ぐ》な真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」
「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」
「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」
「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易《へきえき》するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々《いいだくだく》として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」
「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半《せっぱん》されるんだから、愚《ぐ》の極《きょく》だ」
「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇《あそ》の噴火口を見る事ができるだろう」
「可愛想《かわいそう》に。一人《ひとり》だって阿蘇ぐらい登れるよ」
「しかし華族や金持なんて存外|意気地《いくじ》がないもんで……」
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」
「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟《りくつ》がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「その内、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ剣呑《けんのん》なものだ」
「なあに年《ねん》が年中《ねんじゅう》思っていりゃ、どうにかなるもんだ」
「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉《コレラ》になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」
「時にあの髯《ひげ》を抜いてた爺さんが手拭《てぬぐい》をさげてやって来たぜ」
「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」
「僕はもう湯気《ゆけ》に上がりそうだから、出るよ」
「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入《はい》っていたまえ」
「おや、あとから竹刀《しない》と小手《こて》がいっしょに来たぜ」
「どれ。なるほど、揃《そろ》って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽《ゆぶね》へ這入るのかな」
「僕はともかくも出るよ」
「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」
風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌《すはだ》を臍《へそ》のあたりまで吹き抜けた。出臍《でべそ》の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥《くしゃみ》を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉《はくふよう》が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向《むこう》では阿蘇《あそ》の山がごううごううと遠くながら鳴っている。
「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。
「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。
三
「姉さん、この人は肥《ふと》ってるだろう」
「だいぶん肥《こ》えていなはります」
「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」
「ホホホ」
「豆腐屋じゃおかしいかい」
「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。時にこう、精進料理《しょうじんりょうり》じゃ、あした、御山《おやま》へ登れそうもないな」
「また御馳走《ごちそう》を食いたがる」
「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」
「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。――湯葉《ゆば》に、椎茸《しいたけ》に、芋《いも》に、豆腐、いろいろあるじゃないか」
「いろいろある事はあるがね。ある事は君の商売道具まであるんだが――困ったな。昨日《きのう》は饂飩《うどん》ばかり食わせられる。きょうは湯葉に椎茸ばかりか。ああああ」
「君この芋を食って見たまえ。掘りたてですこぶる美味《びみ》だ」
「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、肴《さかな》は何もないのかい」
「あいにく何もござりまっせん」
「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」
「玉子ならござりまっす」
「その玉子を半熟にして来てくれ」
「何に致します」
「半熟にするんだ」
「煮て参じますか」
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」
「いいえ」
「知らない?」
「知りまっせん」
「どうも辟易《へきえき》だな」
「何でござりまっす」
「何でもいいから、玉子を持って御出《おいで》。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか」
「飲んでもいい」と圭さんは泰然《たいぜん》たる返事をした。
「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」
「よさなくっても好《い》い。ともかくも少し飲もう」
「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情《なさけ》ない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶《あいさつ》をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿《えびす》ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎《びん》に這入《はい》ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛《ひごなま》りの返事をする。
「じゃ、ともかくもその栓《せん》を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」
下女は心得貌《こころえがお》に起って行く。幅の狭い唐縮緬《とうちりめん》をちょきり結びに御臀《おしり》の上へ乗せて、絣《かすり》の筒袖《つつそで》をつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪《そくはつ》に、だいぶ碌さんと圭さんの胆《たん》を寒からしめたようだ。
「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、
「そうさ」と何の苦もなく答えたが、
「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接《つ》いだようにつけた。
「剛健な趣味がありゃしないか」
「うん。実際|田舎者《いなかもの》の精神に、文明の教育を施《ほどこ》すと、立派な人物が出来るんだがな。惜しい事だ」
「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」
「うん、それも好《よ》かろう。しかしそれより前に文明の皮を剥《む》かなくっちゃ、いけない」
「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは水瓜《すいか》のような事を云う。
「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、下卑《げび》た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性《こんじょう》を社会全体に蔓延《まんえん》させるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云う性根《しょうね》の悪い奴があるものだ」
「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」
「体裁だけはすこぶる美事《みごと》なものさ。しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、いやになってしまう」
「そうかね。じゃ、僕もこれから、ちと剛健党《ごうけんとう》の御仲間入りをやろうかな」
「無論の事さ。だからまず第一着《だいいっちゃく》にあした六時に起きて……」
「御昼に饂飩《うどん》を食ってか」
「阿蘇《あそ》の噴火口を観《み》て……」
「癇癪《かんしゃく》を起して飛び込まないように要心《ようじん》をしてか」
「もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して、雄大の気象《きしょう》を養って、齷齪《あくそく》たる塵事《じんじ》を超越するんだ」
「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。だからそこのところは好加減《いいかげん》に超越して置く事にしようじゃないか。僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ」
「弱い男だ」
筒袖《つつそで》の下女が、盆の上へ、麦酒《ビール》を一本、洋盃《コップ》を二つ、玉子を四個、並べつくして持ってくる。
「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでないんだから面白い。さあ一杯《いっぱい》飲むかい」と碌さんが相手に洋盃を渡す。
「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。
「だって玉子は僕が誂《あつ》らえたんだぜ」
「しかし四つとも食う気かい」
「あしたの饂飩《うどん》が気になるから、このうち二個は携帯して行《い》こうと思うんだ」
「うん、そんなら、よそう」と圭さんはすぐ断念する。
「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢《ぜいたく》の沙汰だが、可哀想《かわいそう》でもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」
「おおかた熊本でござりまっしょ」
「ふん、熊本製の恵比寿か、なかなか旨《うま》いや。君どうだ、熊本製の恵比寿は」
「うん。やっぱり東京製と同じようだ。――おい、姉さん、恵比寿はいいが、この玉子は生《なま》だぜ」と玉子を割った圭さんはちょっと眉をひそめた。
「ねえ」
「生だと云うのに」
「ねえ」
「何だか要領を得ないな。君、半熟を命じたんじゃないか。君のも生か」と圭さんは下女を捨てて、碌さんに向ってくる。
「半熟を命じて不熟を得たりか。僕のを一つ割って見よう。――おやこれは駄目だ……」
「うで玉子か」と圭さんは首を延《のば》して相手の膳《ぜん》の上を見る。
「全熟だ。こっちのはどうだ。――うん、
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