記を話すのって、いざとなると、まるで正体なしに寝ちまうんだ。――そうして、非常ないびき[#「いびき」に傍点]をかいて――」
「そうか、そりゃ失敬した。あんまり疲れ過ぎたんだよ」
「時に天気はどうだい」
「上天気だ」
「くだらない天気だ、昨日晴れればいい事を。――そうして顔は洗ったのかい」
「顔はとうに洗った。ともかくも起きないか」
「起きるって、ただは起きられないよ。裸で寝ているんだから」
「僕は裸で起きた」
「乱暴だね。いかに豆腐屋育ちだって、あんまりだ」
「裏へ出て、冷水浴をしていたら、かみさんが着物を持って来てくれた。乾《かわ》いてるよ。ただ鼠色《ねずみいろ》になってるばかりだ」
「乾いてるなら、取り寄せてやろう」と碌さんは、勢《いきおい》よく、手をぽんぽん敲《たた》く。台所の方で返事がある。男の声だ。
「ありゃ御者《ぎょしゃ》かね」
「亭主かも知れないさ」
「そうかな、寝ながら占《うらな》ってやろう」
「占ってどうするんだい」
「占って君と賭《かけ》をする」
「僕はそんな事はしないよ」
「まあ、御者か、亭主か」
「どっちかなあ」
「さあ、早くきめた。そら、来るからさ」
「じゃ、亭主にでもして置こう」
「じゃ君が亭主に、僕が御者だぜ。負けた方が今日|一日《いちんち》命令に服するんだぜ」
「そんな事はきめやしない」
「御早う……御呼びになりましたか」
「うん呼んだ。ちょっと僕の着物を持って来てくれ。乾いてるだろうね」
「ねえ」
「それから腹がわるいんだから、粥《かゆ》を焚《た》いて貰いたい」
「ねえ。御二人さんとも……」
「おれはただの飯《めし》で沢山だよ」
「では御一人さんだけ」
「そうだ。それから馬車は何時と何時に出るかね」
「熊本通いは八時と一時に出ますたい」
「それじゃ、その八時で立つ事にするからね」
「ねえ」
「君、いよいよ熊本へ帰るのかい。せっかくここまで来て阿蘇《あそ》へ上《のぼ》らないのはつまらないじゃないか」
「そりゃ、いけないよ」
「だってせっかく来たのに」
「せっかくは君の命令に因《よ》って、せっかく来たに相違ないんだがね。この豆じゃ、どうにも、こうにも、――天祐《てんゆう》を空《むな》しくするよりほかに道はあるまいよ」
「足が痛めば仕方がないが、――惜しいなあ、せっかく思い立って、――いい天気だぜ、見たまえ」
「だから、君もいっしょに帰りたまえな。せっかくいっしょに来たものだから、いっしょに帰らないのはおかしいよ」
「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」
「誰に済まないんだ」
「僕の主義に済まない」
「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」
「出直して来ちゃ気が済まない」
「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」
「そうでもないさ」
「だって、今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ」
「幾度もあるよ」
「なに一度もない」
「昨日《きのう》も聞いてるじゃないか。谷から上がってから、僕が登ろうと主張したのを、君が何でも下りようと云うから、ここまで引き返したじゃないか」
「昨日は格別さ。二百十日だもの。その代り僕は饂飩《うどん》を何遍も喰ってるじゃないか」
「ハハハハ、ともかくも……」
「まあいいよ。談判はあとにして、ここに宿の人が待ってるから……」
「そうか」
「おい、君」
「ええ」
「君じゃない。君さ、おい宿の先生」
「ねえ」
「君は御者《ぎょしゃ》かい」
「いいえ」
「じゃ御亭主かい」
「いいえ」
「じゃ何だい」
「雇人《やといにん》で……」
「おやおや。それじゃ何にもならない。君、この男は御者でも亭主でもないんだとさ」
「うん、それがどうしたんだ」
「どうしたんだって――まあ好いや、それじゃ。いいよ、君、彼方《あっち》へ行っても好いよ」
「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」
「そこが今|悶着中《もんちゃくちゅう》さ」
「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、支度《したく》が出来ます」
「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってくれ」
「へへへへ御緩《ごゆ》っくり」
「おい、行ってしまった」
「行くのは当り前さ。君が行け行けと催促《さいそく》するからさ」
「ハハハありゃ御者《ぎょしゃ》でも亭主でもないんだとさ。弱ったな」
「何が弱ったんだい」
「何がって。僕はこう思ってたのさ。あの男が御者ですと云うだろう。すると僕が賭《かけ》に勝つ訳《わけ》になるから、君は何でも僕の命令に服さなければならなくなる」
「なるものか、そんな約束はしやしない」
「なに、したと見傚《みな》すんだね」
「勝手にかい」
「曖昧《あいまい》にさ。そこで君は僕といっしょに熊本へ帰らなくっちゃあ、ならないと云う訳さ」

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