え》にかじりついている。麦藁帽子《むぎわらぼうし》を手拭《てぬぐい》で縛《しば》りつけた頭の下から、真赤にいきんだ顔が、八分通り阿蘇卸《あそお》ろしに吹きつけられて、喰い締めた反《そ》っ歯《ぱ》の上にはよな[#「よな」に傍点]が容赦なく降ってくる。
 毛繻子張《けじゅすば》り八間《はちけん》の蝙蝠《こうもり》の柄には、幸い太い瘤《こぶ》だらけの頑丈《がんじょう》な自然木《じねんぼく》が、付けてあるから、折れる気遣《きづかい》はまずあるまい。その自然木の彎曲《わんきょく》した一端に、鳴海絞《なるみしぼ》りの兵児帯《へこおび》が、薩摩《さつま》の強弓《ごうきゅう》に新しく張った弦《ゆみづる》のごとくぴんと薄を押し分けて、先は谷の中にかくれている。その隠れているあたりから、しばらくすると大きな毬栗頭《いがぐりあたま》がぬっと現われた。
 やっと云う掛声と共に両手が崖《がけ》の縁《ふち》にかかるが早いか、大入道《おおにゅうどう》の腰から上は、斜《なな》めに尻《しり》に挿《さ》した蝙蝠傘《こうもり》と共に谷から上へ出た。同時に碌さんは、どさんと仰向《あおむ》きになって、薄《すすき》の底に倒れた。

        五

「おい、もう飯だ、起きないか」
「うん。起きないよ」
「腹の痛いのは癒《なお》ったかい」
「まあ大抵《たいてい》癒ったようなものだが、この様子じゃ、いつ痛くなるかも知れないね。ともかくも[#「ともかくも」に傍点]饂飩《うどん》が祟《たた》ったんだから、容易には癒りそうもない」
「そのくらい口が利《き》ければたしかなものだ。どうだいこれから出掛けようじゃないか」
「どこへ」
「阿蘇《あそ》へさ」
「阿蘇へまだ行く気かい」
「無論さ、阿蘇へ行くつもりで、出掛けたんだもの。行かない訳《わけ》には行かない」
「そんなものかな。しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない」
「豆は痛むかね」
「痛むの何のって、こうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ」
「あんなに、吸殻《すいがら》をつけてやったが、毫《ごう》も利目《ききめ》がないかな」
「吸殻で利目があっちゃ大変だよ」
「だって、付けてやる時は大いにありがたそうだったぜ」
「癒ると思ったからさ」
「時に君はきのう怒ったね」
「いつ」
「裸《はだか》で蝙蝠傘《こうもり》を引っ張るときさ」
「だって、あんまり人を軽蔑《けいべつ》するからさ」
「ハハハしかし御蔭《おかげ》で谷から出られたよ。君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ」
「豆を潰《つぶ》すのも構わずに引っ張った上に、裸で薄《すすき》の中へ倒れてさ。それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。君は人情のない男だ」
「その代りこの宿まで担《かつ》いで来てやったじゃないか」
「担いでくるものか。僕は独立して歩行《ある》いて来たんだ」
「それじゃここはどこだか知ってるかい」
「大《おおい》に人を愚弄《ぐろう》したものだ。ここはどこだって、阿蘇町さ。しかもともかくもの饂飩《うどん》を強《し》いられた三軒置いて隣の馬車宿だあね。半日山のなかを馳《か》けあるいて、ようやく下りて見たら元の所だなんて、全体何てえ間抜《まぬけ》だろう。これからもう君の天祐《てんゆう》は信用しないよ」
「二百十日だったから悪るかった」
「そうして山の中で芝居染《しばいじ》みた事を云ってさ」
「ハハハハしかしあの時は大いに感服して、うん、うん、て云ったようだぜ」
「あの時は感心もしたが、こうなって見ると馬鹿気《ばかげ》ていらあ。君ありゃ真面目《まじめ》かい」
「ふふん」
「冗談か」
「どっちだと思う」
「どっちでも好いが、真面目なら忠告したいね」
「あの時僕の経歴談を聴《き》かせろって、泣いたのは誰だい」
「泣きゃしないやね。足が痛くって心細くなったんだね」
「だって、今日は朝から非常に元気じゃないか、昨日《きのう》た別人の観《かん》がある」
「足の痛いにかかわらずか。ハハハハ。実はあんまり馬鹿気ているから、少し腹を立てて見たのさ」
「僕に対してかい」
「だってほかに対するものがないから仕方がないさ」
「いい迷惑だ。時に君は粥《かゆ》を食うなら誂《あつ》らえてやろうか」
「粥もだがだね。第一、馬車は何時に出るか聞いて貰いたい」
「馬車でどこへ行く気だい」
「どこって熊本さ」
「帰るのかい」
「帰らなくってどうする。こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。ゆうべ、あの枕元でぽんぽん羽目を蹴《け》られたには実に弱ったぜ」
「そうか、僕はちっとも知らなかった。そんなに音がしたかね」
「あの音が耳に入《はい》らなければ全く剛健党に相違ない。どうも君は憎くらしいほど善《よ》く寝る男だね。僕にあれほど堅い約束をして、経歴談をきかせるの、医者の日
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