出る工夫をさ」
「全体何だって、そんな所へ落ちたんだい」
「早く君に安心させようと思って、草山ばかり見つめていたもんだから、つい足元が御留守《おるす》になって、落ちてしまった」
「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。気の毒だな、どうかして上がって貰えないかな、君」
「そうさな。――なに僕は構わないよ。それよりか。君、早く立ちたまえ。そう草で腹を冷《ひ》やしちゃ毒だ」
「腹なんかどうでもいいさ」
「痛むんだろう」
「痛む事は痛むさ」
「だから、ともかくも立ちたまえ。そのうち僕がここで出る工夫《くふう》を考えて置くから」
「考えたら、呼ぶんだぜ。僕も考えるから」
「よし」
会話はしばらく途切《とぎ》れる。草の中に立って碌さんが覚束《おぼつか》なく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の半腹《はんぷく》で、どっと崩《くず》れて海のように濁ったものが頭を去る五六尺の所まで押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゅうと絶間なく吹き卸《お》ろす風は、吹くたびに、黒い夜を遠い国から持ってくる。刻々と逼《せま》る暮色のなかに、嵐は卍《まんじ》に吹きすさむ。噴火孔《ふんかこう》から吹き出す幾万斛《いくまんごく》の煙りは卍のなかに万遍《まんべん》なく捲《ま》き込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒く漲《みなぎ》り渡る。
「おい。いるか」
「いる。何か考えついたかい」
「いいや。山の模様はどうだい」
「だんだん荒れるばかりだよ」
「今日は何日《いくか》だっけかね」
「今日は九月二日さ」
「ことによると二百十日かも知れないね」
会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは満目《まんもく》の草を埋《うず》め尽くして、一丁先は靡《なび》く姿さえ、判然《はき》と見えぬようになった。
「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」
谷の中の人は二百十日の風に吹き浚《さら》われたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇《あそ》の御山は割れるばかりにごううと鳴る。
碌さんは青くなって、また草の上へ棒のように腹這《はらばい》になった。
「おおおい。おらんのか」
「おおおい。こっちだ」
薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。手招きをしているらしい。
「なぜ、そんな所へ行ったんだああ」
「ここから上がるんだああ」
「上がれるのかああ」
「上がれるから、早く来おおい」
碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、脱兎《だっと》の勢《いきおい》で飛び出した。
「おい。ここいらか」
「そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」
「こうか。――なるほど、こりゃ大変浅い。これなら、僕が蝙蝠傘《こうもり》を上から出したら、それへ、取《と》っ捕《つ》らまって上がれるだろう」
「傘《かさ》だけじゃ駄目だ。君、気の毒だがね」
「うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ」
「兵児帯《へこおび》を解いて、その先を傘《かさ》の柄《え》へ結びつけて――君の傘の柄は曲ってるだろう」
「曲ってるとも。大いに曲ってる」
「その曲ってる方へ結びつけてくれないか」
「結びつけるとも。すぐ結びつけてやる」
「結びつけたら、その帯の端《はじ》を上からぶら下げてくれたまえ」
「ぶら下げるとも。訳《わけ》はない。大丈夫だから待っていたまえ。――そうら、長いのが天竺《てんじく》から、ぶら下がったろう」
「君、しっかり傘《かさ》を握っていなくっちゃいけないぜ。僕の身体《からだ》は十七貫六百目あるんだから」
「何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ」
「いいかい」
「いいとも」
「そら上がるぜ。――いや、いけない。そう、ずり下がって来ては……」
「今度は大丈夫だ。今のは試《ため》して見ただけだ。さあ上がった。大丈夫だよ」
「君が滑《す》べると、二人共落ちてしまうぜ」
「だから大丈夫だよ。今のは傘の持ちようがわるかったんだ」
「君、薄《すすき》の根へ足をかけて持ち応《こた》えていたまえ。――あんまり前の方で蹈《ふ》ん張《ば》ると、崖《がけ》が崩《くず》れて、足が滑べるよ」
「よし、大丈夫。さあ上がった」
「足を踏ん張ったかい。どうも今度もあぶないようだな」
「おい」
「何だい」
「君は僕が力がないと思って、大《おおい》に心配するがね」
「うん」
「僕だって一人前の人間だよ」
「無論さ」
「無論なら安心して、僕に信頼したらよかろう。からだは小さいが、朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ」
「じゃ上がるよ。そらっ……」
「そらっ……もう少しだ」
豆で一面に腫《は》れ上がった両足を、うんと薄の根に踏ん張った碌さんは、素肌《すはだ》を二百十日の雨に曝《さら》したまま、海老《えび》のように腰を曲げて、一生懸命に、傘の柄《
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