「そんな訳になるかね」
「なると思って喜こんでたが、雇人《やといにん》だって云うからしようがない」
「そりゃ当人が雇人だと主張するんだから仕方がないだろう」
「もし御者ですと云ったら、僕は彼奴《あいつ》に三十銭やるつもりだったのに馬鹿な奴《やつ》だ」
「何にも世話にならないのに、三十銭やる必要はない」
「だって君は一昨夜《いっさくや》、あの束髪《そくはつ》の下女に二十銭やったじゃないか」
「よく知ってるね。――あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」
「そら出た。華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ」
「君がかい」
「なあに、華族や金持ちがさ」
「そうかな」
「例《たと》えば今日わるい事をするぜ。それが成功しない」
「成功しないのは当り前だ」
「すると、同じようなわるい事を明日《あした》やる。それでも成功しない。すると、明後日《あさって》になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断《ごんごどうだん》だ」
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」
「そこでともかくも阿蘇《あそ》へ登ろう」
「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」
二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々《ごうごう》と百年の不平を限りなき碧空《へきくう》に吐き出している。
底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月19日公開
2004年2月27日修正
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