「まだ何か注文があるのかい」
「うん」
「何だい」
「君の経歴を聞かせるか」
「僕の経歴って、君が知ってる通りさ」
「僕が知ってる前のさ。君が豆腐屋の小僧であった時分から……」
「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋の伜《せがれ》なんだ」
「その伜の時、寒磬寺《かんけいじ》の鉦《かね》の音を聞いて、急に金持がにくらしくなった、因縁話《いんねんばな》しをさ」
「ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。君なんざあ、金持の悪党を相手にした事がないから、そんなに呑気《のんき》なんだ。君はディッキンスの両都物語《りょうとものがた》りと云う本を読んだ事があるか」
「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ディッキンスは読まない」
「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。――あの本のねしまいの方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」
「へえ、どんなものだい」
「そりゃ君、仏国《ふっこく》の革命の起る前に、貴族が暴威を振《ふる》って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。――それも今夜僕が寝《ね》ながら話してやろう」
「うん」
「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理窟《りくつ》だからね。ほら、あの轟々《ごうごう》鳴って吹き出すのと同じ事さ」と圭さんは立ち留《ど》まって、黒い煙の方を見る。
 濛々《もうもう》と天地を鎖《とざ》す秋雨《しゅうう》を突き抜いて、百里の底から沸き騰《のぼ》る濃いものが渦《うず》を捲《ま》き、渦を捲いて、幾百|噸《トン》の量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の煙りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上へ躍《おど》り上がって来る。
 雨と風のなかに、毛虫のような眉を攅《あつ》めて、余念もなく眺《なが》めていた、圭さんが、非常な落ちついた調子で、
「雄大だろう、君」と云った。
「全く雄大だ」と碌さんも真面目《まじめ》で答えた。
「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。
「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」
「刀を使わなければ、何を使うのだい」
 圭さんは、何にも云わずに、平手《ひらて》で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二|返《へん》叩《たた》いた。
「頭か」
「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」
「相手は誰だい」
「金力や威力で、たよりのない同胞《どうぼう》を苦しめる奴らさ」
「うん」
「社会の悪徳を公然商売にしている奴らさ」
「うん」
「商売なら、衣食のためと云う言い訳も立つ」
「うん」
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴らは、どうしても叩《たた》きつけなければならん」
「うん」
「君もやれ」
「うん、やる」
 圭さんは、のっそりと踵《くびす》をめぐらした。碌さんは黙然《もくねん》として尾《つ》いて行く。空にあるものは、煙りと、雨と、風と雲である。地にあるものは青い薄《すすき》と、女郎花《おみなえし》と、所々にわびしく交《まじ》る桔梗《ききょう》のみである。二人は煢々《けいけい》として無人《むにん》の境《きょう》を行く。
 薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を蔽《おお》うている。身を横にしても、草に触れずに進む訳《わけ》には行かぬ。触れれば雨に濡《ぬ》れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣《ゆかた》に、白の股引《ももひき》に、足袋《たび》と脚絆《きゃはん》だけを紺《こん》にして、濡れた薄をがさつかせて行く。腰から下はどぶ鼠《ねずみ》のように染まった。腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、よな[#「よな」に傍点]を、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末である。
 たださえ、うねり、くねっている路だから、草がなくっても、どこへどう続いているか見極《みきわ》めのつくものではない。草をかぶればなおさらである。地に残る馬の足跡さえ、ようやく見つけたくらいだから、あとの始末は無論天に任せて、あるいていると云わねばならぬ。
 最初のうちこそ、立ち登る煙りを正面に見て進んだ路は、いつの間にやら、折れ曲って、次第に横からよな[#「よな」に傍点]を受くるようになった。横に眺める噴火口が今度は自然《じねん》に後ろの方に見えだした時、圭さんはぴたりと足を留《と》めた。
「どうも路が違うようだね」
「うん」と碌さんは恨《うら》めしい顔をして、同じく立ち留《どま》った。
「何だか、情《なさけ》ない顔をしているね。苦しいかい」
「実際情けないんだ」
「どこか痛むかい」
「豆が一面に出来て、たまらない」
「困ったな。よ
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