っぽど痛いかい。僕の肩へつらまったら、どうだね。少しは歩行《ある》き好《い》いかも知れない」
「うん」と碌さんは気のない返事をしたまま動かない。
「宿へついたら、僕が面白い話をするよ」
「全体いつ宿へつくんだい」
「五時には湯元へ着く予定なんだが、どうも、あの煙りは妙だよ。右へ行っても、左りへ行っても、鼻の先にあるばかりで、遠くもならなければ、近くもならない」
「上《のぼ》りたてから鼻の先にあるぜ」
「そうさな。もう少しこの路を行って見ようじゃないか」
「うん」
「それとも、少し休むか」
「うん」
「どうも、急に元気がなくなったね」
「全く饂飩《うどん》の御蔭《おかげ》だよ」
「ハハハハ。その代り宿へ着くと僕が話しの御馳走《ごちそう》をするよ」
「話しも聞きたくなくなった」
「それじゃまたビールでない恵比寿《えびす》でも飲むさ」
「ふふん。この様子じゃ、とても宿へ着けそうもないぜ」
「なに、大丈夫だよ」
「だって、もう暗くなって来たぜ」
「どれ」と圭さんは懐中時計を出す。「四時五分前だ。暗いのは天気のせいだ。しかしこう方角が変って来ると少し困るな。山へ登ってから、もう二三里はあるいたね」
「豆の様子じゃ、十里くらいあるいてるよ」
「ハハハハ。あの煙りが前に見えたんだが、もうずっと、後《うし》ろになってしまった。すると我々は熊本の方へ二三里近付いた訳かね」
「つまり山からそれだけ遠ざかった訳さ」
「そう云えばそうさ。――君、あの煙りの横の方からまた新しい煙が見えだしたぜ。あれが多分、新しい噴火口なんだろう。あのむくむく出るところを見ると、つい、そこにあるようだがな。どうして行かれないだろう。何でもこの山のつい裏に違いないんだが、路がないから困る」
「路があったって駄目だよ」
「どうも雲だか、煙りだか非常に濃く、頭の上へやってくる。壮《さか》んなものだ。ねえ、君」
「うん」
「どうだい、こんな凄《すご》い景色はとても、こう云う時でなけりゃ見られないぜ。うん、非常に黒いものが降って来る。君あたまが大変だ。僕の帽子を貸してやろう。――こう被《かぶ》ってね。それから手拭《てぬぐい》があるだろう。飛ぶといけないから、上から結《い》わいつけるんだ。――僕がしばってやろう。――傘《かさ》は、畳むがいい。どうせ風に逆《さか》らうぎりだ。そうして杖《つえ》につくさ。杖が出来ると、少しは歩行《ある》けるだろう」
「少しは歩行きよくなった。――雨も風もだんだん強くなるようだね」
「そうさ、さっきは少し晴れそうだったがな。雨や風は大丈夫だが、足は痛むかね」
「痛いさ。登るときは豆が三つばかりだったが、一面になったんだもの」
「晩にね、僕が、煙草の吸殻《すいがら》を飯粒《めしつぶ》で練って、膏薬《こうやく》を製《つく》ってやろう」
「宿へつけば、どうでもなるんだが……」
「あるいてるうちが難義か」
「うん」
「困ったな。――どこか高い所へ登ると、人の通る路が見えるんだがな。――うん、あすこに高い草山が見えるだろう」
「あの右の方かい」
「ああ。あの上へ登ったら、噴火孔《ふんかこう》が一《ひ》と眼《め》に見えるに違《ちがい》ない。そうしたら、路が分るよ」
「分るって、あすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ」
「待ちたまえちょっと時計を見るから。四時八分だ。まだ暮れやしない。君ここに待っていたまえ。僕がちょっと物見《ものみ》をしてくるから」
「待ってるが、帰りに路が分らなくなると、それこそ大変だぜ。二人離れ離れになっちまうよ」
「大丈夫だ。どうしたって死ぬ気遣《きづかい》はないんだ。どうかしたら大きな声を出して呼ぶよ」
「うん。呼んでくれたまえ」
 圭さんは雲と煙の這《は》い廻るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人|薄《すすき》のなかに立って、頼みにする友の後姿を見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。
 大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは烈《はげ》しく轟《ごう》となる。その折は雨も煙りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、悄然《しょうぜん》と立つ碌さんの体躯《からだ》へ突き当るように思われる。草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに靡《なび》く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。碌さんは向うの草山を見つめながら、顫《ふる》えている。よな[#「よな」に傍点]のしずくは、碌さんの下腹まで浸《し》み透《とお》る。
 毒々しい黒煙りが長い渦《うず》を七巻《ななまき》まいて、むくりと空を突く途端《とたん》に、碌さんの踏む足の底が、地震のように撼《うご》いたと思った。あとは、山鳴りが比較的静まった。すると地面の下の方で、
「おおおい」と呼ぶ声がする。
 碌さんは両手を
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