を見たまえ」と碌さんが指をさす。長い薄の葉は一面に灰を浴びて濡《ぬ》れながら、靡《なび》く。
「なるほど」
「困ったな、こりゃ」
「なあに大丈夫だ。ついそこだもの。あの煙りの出る所を目当《めあて》にして行けば訳《わけ》はない」
「訳はなさそうだが、これじゃ路《みち》が分らないぜ」
「だから、さっきから、待っていたのさ。ここを左りへ行くか、右へ行くかと云う、ちょうど股《また》の所なんだ」
「なるほど、両方共路になってるね。――しかし煙りの見当から云うと、左りへ曲がる方がよさそうだ」
「君はそう思うか。僕は右へ行くつもりだ」
「どうして」
「どうしてって、右の方には馬の足跡があるが、左の方には少しもない」
「そうかい」と碌さんは、身躯《からだ》を前に曲げながら、蔽《おお》いかかる草を押し分けて、五六歩、左の方へ進んだが、すぐに取って返して、
「駄目のようだ。足跡は一つも見当らない」と云った。
「ないだろう」
「そっちにはあるかい」
「うん。たった二つある」
「二つぎりかい」
「そうさ。たった二つだ。そら、こことここに」と圭さんは繻子張《しゅすばり》の蝙蝠傘《こうもり》の先で、かぶさる薄《すすき》の下に、幽《かす》かに残る馬の足跡を見せる。
「これだけかい心細いな」
「なに大丈夫だ」
「天祐《てんゆう》じゃないか、君の天祐はあてにならない事|夥《おびただ》しいよ」
「なにこれが天祐さ」と圭さんが云い了《おわ》らぬうちに、雨を捲《ま》いて颯《さっ》とおろす一陣の風が、碌さんの麦藁帽《むぎわらぼう》を遠慮なく、吹き込めて、五六間先まで飛ばして行く。眼に余る青草は、風を受けて一度に向うへ靡《なび》いて、見るうちに色が変ると思うと、また靡き返してもとの態《さま》に戻る。
「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上に見える。あれを見たまえ」と圭さんが幾重《いくえ》となく起伏する青い草の海を指《さ》す。
「痛快でもないぜ。帽子が飛んじまった」
「帽子が飛んだ? いいじゃないか帽子が飛んだって。取ってくるさ。取って来てやろうか」
 圭さんは、いきなり、自分の帽子の上へ蝙蝠傘を重《おも》しに置いて、颯と、薄の中に飛び込んだ。
「おいこの見当か」
「もう少し左りだ」
 圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんはまた心配になる。
「おうい。大丈夫か」
「何だあ」と向うの首から声が出る。
「大丈夫かよう」
 やがて圭さんの首が見えなくなった。
「おうい」
 鼻の先から出る黒煙りは鼠色《ねずみいろ》の円柱《まるばしら》の各部が絶間《たえま》なく蠕動《ぜんどう》を起しつつあるごとく、むくむくと捲《ま》き上がって、半空《はんくう》から大気の裡《うち》に溶《と》け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然《しょうぜん》として、首の消えた方角を見つめている。
 しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が忽然《こつぜん》と現われた。
「帽子はないぞう」
「帽子はいらないよう。早く帰ってこうい」
 圭さんは坊主頭を振り立てながら、薄《すすき》の中を泳いでくる。
「おい、どこへ飛ばしたんだい」
「どこだか、相談が纏《まとま》らないうちに飛ばしちまったんだ。帽子はいいが、歩行《ある》くのは厭《いや》になったよ」
「もういやになったのか。まだあるかないじゃないか」
「あの煙と、この雨を見ると、何だか物凄《ものすご》くって、あるく元気がなくなるね」
「今から駄々《だだ》を捏《こ》ねちゃ仕方がない。――壮快じゃないか。あのむくむく煙の出てくるところは」
「そのむくむくが気味が悪るいんだ」
「冗談《じょうだん》云っちゃ、いけない。あの煙の傍《そば》へ行くんだよ。そうして、あの中を覗《のぞ》き込むんだよ」
「考えると全く余計な事だね。そうして覗き込んだ上に飛び込めば世話はない」
「ともかくもあるこう」
「ハハハハともかくもか。君がともかくもと云い出すと、つい釣り込まれるよ。さっきもともかくもで、とうとう饂飩《うどん》を食っちまった。これで赤痢《せきり》にでも罹《か》かれば全くともかくもの御蔭《おかげ》だ」
「いいさ、僕が責任を持つから」
「僕の病気の責任を持ったって、しようがないじゃないか。僕の代理に病気になれもしまい」
「まあ、いいさ。僕が看病をして、僕が伝染して、本人の君は助けるようにしてやるよ」
「そうか、それじゃ安心だ。まあ、少々あるくかな」
「そら、天気もだいぶよくなって来たよ。やっぱり天祐《てんゆう》があるんだよ」
「ありがたい仕合せだ。あるく事はあるくが、今夜は御馳走《ごちそう》を食わせなくっちゃ、いやだぜ」
「また御馳走か。あるきさえすればきっと食わせるよ」
「それから……」

前へ 次へ
全18ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング