、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚く被《かぶ》ってるから小憎《こにく》らしい」
「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似《まね》がしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳《うとく》の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩《はい》は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十|把一《ぱひ》とからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様《まっさかさま》に地獄の下へ落しちまったら」
「今に落としてやる」と圭さんは薄黒く渦巻《うずま》く煙りを仰いで、草鞋足《わらじあし》をうんと踏張《ふんば》った。
「大変な権幕《けんまく》だね。君、大丈夫かい。十把一とからげを放《ほう》り込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ」
「あの音は壮烈だな」
「足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いて見たまえ」
「どんなだい」
「非常な音だ。たしかに足の下がうなってる」
「その割に煙りがこないな」
「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」
「樹《き》が多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう」
 しばらくは雑木林《ぞうきばやし》の間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲が善《よ》くても並んで歩行《ある》く訳には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々《ゆうゆう》と振って先へ行く。碌さんは小さな体躯《からだ》をすぼめて、小股《こまた》に後《あと》から尾《つ》いて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。
 路は左右に曲折して爪先上《つまさきあが》りだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下りる人は一人もない。上《あが》るものにも全く出合わない。ただ所々に馬の足跡がある。たまに草鞋の切れが茨《いばら》にかかっている。そのほかに人の気色《けしき》はさらにない、饂飩腹《うどんばら》の碌さんは少々心細くなった。
 きのうの澄み切った空に引き易《か》えて、今朝宿を立つ時からの霧模様《きりもよう》には少し掛念《けねん》もあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇《あそ》の社《やしろ》までは漕《こ》ぎつけた。白木《しらき》の宮に禰宜《ねぎ》の鳴らす柏手《かしわで》が、森閑《しんかん》と立つ杉の梢《こずえ》に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額《ひたい》に落ちた。饂飩《うどん》を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡《なび》いた頃から、午過《ひるす》ぎは雨かなとも思われた。
 雑木林を小半里《こはんみち》ほど来たら、怪しい空がとうとう持ち切れなくなったと見えて、梢《こずえ》にしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。あとから、すぐ新しい音が耳を掠《かす》めて、翻《ひるが》える木《こ》の葉《は》と共にまた北の方へ走る。碌さんは首を縮めて、えっと舌打ちをした。
 一時間ほどで林は尽きる。尽きると云わんよりは、一度に消えると云う方が適当であろう。ふり返る、後《うしろ》は知らず、貫《つらぬ》いて来た一筋道のほかは、東も西も茫々《ぼうぼう》たる青草が波を打って幾段となく連《つら》なる後《あと》から、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる。噴火口こそ見えないが、煙りの出るのは、つい鼻の先である。
 林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道《おおにゅうどう》の圭さんが空を仰いで立っている。蝙蝠傘《こうもり》は畳んだまま、帽子さえ、被《かぶ》らずに毬栗頭《いがぐりあたま》をぬっくと草から上へ突き出して地形を見廻している様子だ。
「おうい。少し待ってくれ」
「おうい。荒れて来たぞ。荒れて来たぞうう。しっかりしろう」
「しっかりするから、少し待ってくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかを這《は》い上がる。ようやく追いつく碌さんを待ち受けて、
「おい何をぐずぐずしているんだ」と圭さんが遣《や》っつける。
「だから饂飩じゃ駄目だと云ったんだ。ああ苦しい。――おい君の顔はどうしたんだ。真黒だ」
「そうか、君のも真黒だ」
 圭さんは、無雑作《むぞうさ》に白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》で、頭から顔を撫《な》で廻す。碌さんは腰から、ハンケチを出す。
「なるほど、拭《ふ》くと、着物がどす黒くなる」
「僕のハンケチも、こんなだ」
「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を曝《さら》しながら、空模様を見廻す。
「よな[#「よな」に傍点]だ。よな[#「よな」に傍点]が雨に溶《と》けて降ってくるんだ。そら、その薄《すすき》の上
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