な[#「よな」に傍点]た何だい」
「灰でござりまっす」
下女は障子をあけて、椽側《えんがわ》へ人指《ひとさ》しゆびを擦《す》りつけながら、
「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。
「なるほど、始終《しじゅう》降ってるんだ。きのうは、こんなじゃなかったね」と圭さんが感心する。
「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」
「おい君、いくら荒れても登る気かね。荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか」
「荒れればなお愉快だ。滅多《めった》に荒れたところなんぞが見られるものじゃない。荒れる時と、荒れない時は火の出具合が大変違うんだそうだ。ねえ、姉さん」
「ねえ、今夜は大変赤く見えます。ちょと出て御覧なさいまっせ」
どれと、圭さんはすぐ椽側へ飛び出す。
「いやあ、こいつは熾《さかん》だ。おい君早く出て見たまえ。大変だよ」
「大変だ? 大変じゃ出て見るかな。どれ。――いやあ、こいつは――なるほどえらいものだね――あれじゃとうてい駄目だ」
「何が」
「何がって、――登る途中で焼き殺されちまうだろう」
「馬鹿を云っていらあ。夜だから、ああ見えるんだ。実際昼間から、あのくらいやってるんだよ。ねえ、姉さん」
「ねえ」
「ねえかも知れないが危険だぜ。ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ」と碌さんは、自分の頬《ほっ》ぺたを撫《な》で廻す。
「大袈裟《おおげさ》な事ばかり云う男だ」
「だって君の顔だって、赤く見えるぜ。そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。あの青い葉が一面に、こう照らされているじゃないか」
「嘘《うそ》ばかり、あれは星のひかりで見えるのだ」
「星のひかりと火のひかりとは趣《おもむき》が違うさ」
「どうも、君もよほど無学だね。君、あの火は五六里先きにあるのだぜ」
「何里先きだって、向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか」と碌さんは向《むこう》をゆびさして大きな輪を指の先で描《えが》いて見せる。
「よるだもの」
「夜だって……」
「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。
「人格にかかわるかね。人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」
「まだあんな事を云っている。――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。ねえ姉さん。あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」
「ねえい」
「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を覗《のぞ》き込む。
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登っちゃ、男は是非《ぜひ》登る訳《わけ》かな。飛んだ事になったもんだ」
「ともかくも、あしたは六時に起きて……」
「もう分ったよ」
言い棄《す》てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然《もくねん》と、眉《まゆ》を軒《あ》げて、奈落《ならく》から半空に向って、真直《まっすぐ》に立つ火の柱を見詰めていた。
四
「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭《けい》さんが振り返る。
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入《はい》らずに左へ廻れと教えたぜ」
「饂飩屋《うどんや》の爺《じい》さんがか」と碌《ろく》さんはしきりに胸を撫《な》で廻す。
「そうさ」
「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」
「なぜ」
「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡《ふりょうけん》だ」
「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥《はる》かに尊《たっ》といさ」
「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は性《しょう》に合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、いくら饂飩屋の亭主を恨《うら》んでも後《あと》の祭《まつ》りだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」
「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」
「阿蘇《あそ》の火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々|剣呑《けんのん》になって来たぜ」
「なに、大丈夫だ。天祐《てんゆう》があるんだから」
「どこに」
「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」
「どうも君は自信家だ。剛健党《ごうけんとう》になるかと思うと、天祐派《てんゆうは》になる。この次ぎには天誅組《てんちゅうぐみ》にでもなって筑波山《つくばさん》へ立て籠《こも》るつもりだろう」
「なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」
「いつそんな目に逢《あ》ったんだい」
「いつでもいいさ。桀紂《けっちゅう》と云えば古来から悪人として通《とお》り者《もの》だが
前へ
次へ
全18ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング