誰でも構わないさ」
「ハハハ呑気《のんき》なもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚《おどろ》いたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙《ごめんこうむ》ろうかと思った」
「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行《ある》いたつもりだ」
「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」
「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」
「また華族と金持ちか。眼の敵《かたき》だね」
「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」
「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」
「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」
碌さんは湯の中で首を捩《ね》じ向ける。
「かぼちゃさ」
「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這《は》ってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」
「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」
「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」
「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」
「そりゃ唄《うた》かい」
「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」
「屋根にかぼちゃが生《な》るようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」
「また慷慨《こうがい》か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇《あそ》へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」
「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石《たくあんいし》のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮《さか》んに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」
「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行《ある》いちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。
「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社《あそじんじゃ》へ参詣《さんけい》して、十二時から登るのだ」
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」
「何だか君|一人《ひと》りで登るようだぜ」
「なに構わない」
「ありがたい仕合せだ。まるで御供《おとも》のようだね」
「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩《うどん》にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯《ひるめし》の相談をする。
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸《すぎばし》を食うようで腹が突張《つっぱ》ってたまらない」
「では蕎麦《そば》か」
「蕎麦も御免だ。僕は麺類《めんるい》じゃ、とても凌《しの》げない男だから」
「じゃ何を食うつもりだい」
「何でも御馳走《ごちそう》が食いたい」
「阿蘇《あそ》の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平《ひら》に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好《い》いんだからね」
「だから柔弱《にゅうじゃく》でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」
「痩《や》せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。
「そんなに痩せもしなかったがただ虱《しらみ》が湧《わ》いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟《か》り尽せるもんじゃないぜ」
「煮え湯で洗濯《せんたく》したらよかろう」
「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」
「なあるほど、銭《ぜに》が一|文《もん》もないんだね」
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、襯衣《シャツ》を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩《たた》いた。そうしたら虱《しらみ》が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多《めった》に困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚《あぶらげ》、がんもどきと怒鳴《どな》って、あるかなくっちゃならないかね」
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
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