「あってもそのくらいじゃ駄目だ」
「このくらいじゃ豆腐《とうふ》いと云う資格はないのかな。大《おおい》に僕の財産を見縊《みくび》ったね」
「時に君、背中《せなか》を流してくれないか」
「僕のも流すのかい」
「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」
「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」
「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を湯壺《ゆつぼ》の中にうんと踏ん張って、ぎゅうと手拭《てぬぐい》をしごいたと思ったら、両端《りょうはじ》を握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて斜《はす》に膏切《あぶらぎ》った背中へあてがった。やがて二の腕へ力瘤《ちからこぶ》が急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち磨《こす》り始める。
手拭の運動につれて、圭さんの太い眉《まゆ》がくしゃりと寄って来る。鼻の穴が三角形に膨脹《ぼうちょう》して、小鼻が勃《ぼっ》として左右に展開する。口は腹を切る時のように堅く喰締《くいしば》ったまま、両耳の方まで割《さ》けてくる。
「まるで仁王《におう》のようだね。仁王の行水《ぎょうずい》だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」
圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦《こす》る。擦っては時々、手拭を温泉《ゆ》に漬《つ》けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗《あせ》と膏《あぶら》と垢《あか》と温泉《ゆ》の交《まじ》ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。
「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽《ゆぶね》を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極《きょく》、流しへ突っ立ったまま、茫然《ぼうぜん》として、仁王の行水を眺めている。
「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽《ふね》のなかから質問する。
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端《いったん》を放すや否や、ざぶんと温泉《ゆ》の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽《まんそう》の湯は一度に面喰《めんくら》って、槽の底から大恐惶《だいきょうこう》を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢《あふ》れだす。
「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。
「なるほどそう遠慮なしに振舞《ふるま》ったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」
「あの隣りの客は竹刀《しない》と小手《こて》の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気《のんき》なものだ。
「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳《わけ》が分らない」
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似《まね》をする。
「ハハハハそこでそら竹刀《しない》を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。
「なにあれでも、実は慷慨家《こうがいか》かも知れない。そらよく草双紙《くさぞうし》にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本|毛剃九右衛門《けぞりくえもん》て」
「海賊らしくもないぜ。さっき温泉《ゆ》に這入《はい》りに来る時、覗《のぞ》いて見たら、二人共|木枕《きまくら》をして、ぐうぐう寝ていたよ」
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載《の》せたまんま寝ていたよ」
「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。
「何だろう、あの本は」
「伊賀《いが》の水月《すいげつ》さ」と碌さんは、躊躇《ちゅうちょ》なく答えた。
「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻《ひね》った。
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない? なぜ」
「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入《はい》る。圭さんはまた槽《ふね》のなかへ突立《つった》った。
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上《のぼせ》るから、時々こう立つのさ」
「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。
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