、耳の後ろに宛《あ》てた。
「おおおい」
 たしかに呼んでいる。不思議な事にその声が妙に足の下から湧《わ》いて出る。
「おおおい」
 碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出した。
「おおおい」と癇《かん》の高い声を、肺の縮むほど絞《しぼ》り出すと、太い声が、草の下から、
「おおおい」と応《こた》える。圭さんに違ない。
 碌さんは胸まで来る薄をむやみに押し分けて、ずんずん声のする方に進んで行く。
「おおおい」
「おおおい。どこだ」
「おおおい。ここだ」
「どこだああ」
「ここだああ。むやみにくるとあぶないぞう。落ちるぞう」
「どこへ落ちたんだああ」
「ここへ落ちたんだああ。気をつけろう」
「気はつけるが、どこへ落ちたんだああ」
「落ちると、足の豆が痛いぞうう」
「大丈夫だああ。どこへ落ちたんだああ」
「ここだあ、もうそれから先へ出るんじゃないよう。おれがそっちへ行くから、そこで待っているんだよう」
 圭さんの胴間声《どうまごえ》は地面のなかを通って、だんだん近づいて来る。
「おい、落ちたよ」
「どこへ落ちたんだい」
「見えないか」
「見えない」
「それじゃ、もう少し前へ出た」
「おや、何だい、こりゃ」
「草のなかに、こんなものがあるから剣呑《けんのん》だ」
「どうして、こんな谷があるんだろう」
「火熔石《かようせき》の流れたあとだよ。見たまえ、なかは茶色で草が一本も生《は》えていない」
「なるほど、厄介《やっかい》なものがあるんだね。君、上がれるかい」
「上がれるものか。高さが二間ばかりあるよ」
「弱ったな。どうしよう」
「僕の頭が見えるかい」
「毬栗《いがぐり》の片割れが少し見える」
「君ね」
「ええ」
「薄《すすき》の上へ腹這《はらばい》になって、顔だけ谷の上へ乗り出して見たまえ」
「よし、今顔を出すから待っていたまえよ」
「うん、待ってる、ここだよ」と圭さんは蝙蝠傘《こうもり》で、崖《がけ》の腹をとんとん叩《たた》く。碌さんは見当を見計《みはから》って、ぐしゃりと濡れ薄の上へ腹をつけて恐る恐る首だけを溝《みぞ》の上へ出して、
「おい」
「おい。どうだ。豆は痛むかね」
「豆なんざどうでもいいから、早く上がってくれたまえ」
「ハハハハ大丈夫だよ。下の方が風があたらなくって、かえって楽《らく》だぜ」
「楽だって、もう日が暮れるよ、早く上がらないと」
「君」
「ええ」

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