ハンケチはないか」
「ある。何にするんだい」
「落ちる時に蹴爪《けつま》ずいて生爪《なまづめ》を剥《は》がした」
「生爪を? 痛むかい」
「少し痛む」
「あるけるかい」
「あるけるとも。ハンケチがあるなら抛《な》げてくれたまえ」
「裂いてやろうか」
「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。風で飛ぶと、いけないから、堅く丸めて落すんだよ」
「じくじく濡《ぬ》れてるから、大丈夫だ。飛ぶ気遣《きづかい》はない。いいか、抛げるぜ、そら」
「だいぶ暗くなって来たね。煙は相変らず出ているかい」
「うん。空中《そらじゅう》一面の煙だ」
「いやに鳴るじゃないか」
「さっきより、烈《はげ》しくなったようだ。――ハンケチは裂けるかい」
「うん、裂けたよ。繃帯《ほうたい》はもうでき上がった」
「大丈夫かい。血が出やしないか」
「足袋《たび》の上へ雨といっしょに煮染《にじ》んでる」
「痛そうだね」
「なあに、痛いたって。痛いのは生きてる証拠だ」
「僕は腹が痛くなった」
「濡《ぬ》れた草の上に腹をつけているからだ。もういいから、立ちたまえ」
「立つと君の顔が見えなくなる」
「困るな。君いっその事に、ここへ飛び込まないか」
「飛び込んで、どうするんだい」
「飛び込めないかい」
「飛び込めない事もないが――飛び込んで、どうするんだい」
「いっしょにあるくのさ」
「そうしてどこへ行くつもりだい」
「どうせ、噴火口から山の麓《ふもと》まで流れた岩のあとなんだから、この穴の中をあるいていたら、どこかへ出るだろう」
「だって」
「だって厭《いや》か。厭じゃ仕方がない」
「厭じゃないが――それより君が上がれると好いんだがな。君どうかして上がって見ないか」
「それじゃ、君はこの穴の縁《ふち》を伝《つた》って歩行《ある》くさ。僕は穴の下をあるくから。そうしたら、上下《うえした》で話が出来るからいいだろう」
「縁《ふち》にゃ路はありゃしない」
「草ばかりかい」
「うん。草がね……」
「うん」
「胸くらいまで生《は》えている」
「ともかくも僕は上がれないよ」
「上がれないって、それじゃ仕方がないな――おい。――おい。――おいって云うのにおい。なぜ黙ってるんだ」
「ええ」
「大丈夫かい」
「何が」
「口は利《き》けるかい」
「利けるさ」
「それじゃ、なぜ黙ってるんだ」
「ちょっと考えていた」
「何を」
「穴から
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