大丈夫か」
「何だあ」と向うの首から声が出る。
「大丈夫かよう」
 やがて圭さんの首が見えなくなった。
「おうい」
 鼻の先から出る黒煙りは鼠色《ねずみいろ》の円柱《まるばしら》の各部が絶間《たえま》なく蠕動《ぜんどう》を起しつつあるごとく、むくむくと捲《ま》き上がって、半空《はんくう》から大気の裡《うち》に溶《と》け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然《しょうぜん》として、首の消えた方角を見つめている。
 しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が忽然《こつぜん》と現われた。
「帽子はないぞう」
「帽子はいらないよう。早く帰ってこうい」
 圭さんは坊主頭を振り立てながら、薄《すすき》の中を泳いでくる。
「おい、どこへ飛ばしたんだい」
「どこだか、相談が纏《まとま》らないうちに飛ばしちまったんだ。帽子はいいが、歩行《ある》くのは厭《いや》になったよ」
「もういやになったのか。まだあるかないじゃないか」
「あの煙と、この雨を見ると、何だか物凄《ものすご》くって、あるく元気がなくなるね」
「今から駄々《だだ》を捏《こ》ねちゃ仕方がない。――壮快じゃないか。あのむくむく煙の出てくるところは」
「そのむくむくが気味が悪るいんだ」
「冗談《じょうだん》云っちゃ、いけない。あの煙の傍《そば》へ行くんだよ。そうして、あの中を覗《のぞ》き込むんだよ」
「考えると全く余計な事だね。そうして覗き込んだ上に飛び込めば世話はない」
「ともかくもあるこう」
「ハハハハともかくもか。君がともかくもと云い出すと、つい釣り込まれるよ。さっきもともかくもで、とうとう饂飩《うどん》を食っちまった。これで赤痢《せきり》にでも罹《か》かれば全くともかくもの御蔭《おかげ》だ」
「いいさ、僕が責任を持つから」
「僕の病気の責任を持ったって、しようがないじゃないか。僕の代理に病気になれもしまい」
「まあ、いいさ。僕が看病をして、僕が伝染して、本人の君は助けるようにしてやるよ」
「そうか、それじゃ安心だ。まあ、少々あるくかな」
「そら、天気もだいぶよくなって来たよ。やっぱり天祐《てんゆう》があるんだよ」
「ありがたい仕合せだ。あるく事はあるくが、今夜は御馳走《ごちそう》を食わせなくっちゃ、いやだぜ」
「また御馳走か。あるきさえすればきっと食わせるよ」
「それから……」

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