は桐《きり》の本箱の中に、日本紙へ活版で刷った予約の『八犬伝』を綺麗《きれい》に重ね込んでいた。
「健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか」
「いいえ」
「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸といった昔の日本橋《にほんばし》や桜田《さくらだ》がすっかり分るんだからね」
 彼は床の間の上にある別の本箱の中から、美濃紙《みのがみ》版の浅黄《あさぎ》の表紙をした古い本を一、二冊取り出した。そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本を蔵《くら》から引き摺《ず》り出して来て、頁《ページ》から頁へと丹念に挿絵《さしえ》を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町《するがちょう》という所に描《か》いてある越後屋《えちごや》の暖簾《のれん》と富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点《しょうてん》となった。
「この分ではとてもその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にしたくっても出て来《こ》まい」
 健三は心のうちでこう考えた。ただ焦燥《あせり》に焦燥ってばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒でもあった。
 兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はその間を繋《つな》ぐためか、しきりに書物の話をつづけようとした。書物の事なら何時《いつ》まで話していても、健三にとって迷惑にならないという自信でも持っているように見えた。不幸にして彼の知識は、『常山紀談』を普通の講談ものとして考える程度であった。それでも彼は昔し出た『風俗画報』を一冊残らず綴《と》じて持っていた。
 本の話が尽きた時、彼は仕方なしに問題を変えた。
「もう来そうなもんですね、長《ちょう》さんも。あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日は明けの日だから、遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。何ならちょっと迎《むかい》に遣《や》りましょうか」
 この時また変化が来たと見えて、火の着くように咳き入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。

     二十六

 やがて門口《かどぐち》の格子《こうし》を開けて、沓脱《くつぬぎ》へ下駄《げた》を脱ぐ音がした。
「やっと来たようですぜ」と比田《ひだ》がいった。
 しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入《はい》った。
「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時《いつ》から」
 短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に坐《すわ》っている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。
「長さん、先刻《さっき》から待ってるんだ」
 性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の喘息《ぜんそく》などはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何《いか》にもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。
「今行きますよ」
 長太郎《ちょうたろう》も少し癪《しゃく》だと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。
「重湯《おもゆ》でも少し飲んだら好《い》いでしょう。厭《いや》? でもそう何にも食べなくっちゃ身体《からだ》が疲れるだけだから」
 姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中《せなか》を撫《さす》っていた女が一口ごとに適宜な挨拶《あいさつ》をした。平生《へいぜい》健三よりは親しくその宅《うち》へ出入《でいり》する兄は、見馴《みな》れないこの女とも近付《ちかづき》と見えた。そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。
 比田はぷりっと膨《ふく》れていた。朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごし擦《こす》った。しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。
「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」
 比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。
「何ですあの人は」
「そら梳手《すきて》の御勢《おせい》ですよ。昔し健ちゃんの遊《あす》びに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」
「へええ」
 健三には比田の家《うち》でそんな女に会った覚《おぼえ》が全くなかった。
「知りませんね」
「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌《しゃべ》るのが病なんだから」
 よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。
 姉はまた咳《せ》き出した。その発作が一段落片付くまでは、さすがの比田も黙っていた。長太郎も茶の間を出て来なかった。
「何だか先刻《さっき》より劇《はげ》しいようですね」
 少し不安になった健三は、そういいながら席を立とうとした。比田は一も二もなく留めた。
「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見るとちょっと吃驚《びっくり》しますがね。私《わたし》なんざあもう年来|馴《な》れっ子になってるから平気なもんですよ。実際またあれを一々苦にしているようじゃ、とても今日《こんにち》まで一所に住んでる事は出来ませんからね」
 健三は何とも答える訳に行かなかった。ただ腹の中で、自分の細君が歇私的里《ヒステリー》の発作に冒された時の苦しい心持を、自然の対照として描き出した。
 姉の咳嗽《せき》が一収《ひとおさま》り収った時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。
「どうも済みません。もっと早く来るはずだったが、生憎《あいにく》珍らしく客があったもんだから」
「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」
 比田は健三の兄に向ってこの位な気安い口調で話の出来る地位にあった。

     二十七

 三人はすぐ用談に取り掛った。比田《ひだ》が最初に口を開《ひら》いた。
 彼はちょっとした相談事にも仔細《しさい》ぶる男であった。そうして仔細ぶればぶるほど、自分の存在が周囲から強く認められると考えているらしかった。「比田さん比田さんって、立てて置きさえすりゃ好《い》いんだ」と皆《みん》なが蔭《かげ》で笑っていた。
「時に長さんどうしたもんだろう」
「そう」
「どうもこりゃ天から筋が違うんだから、健ちゃんに話をするまでもなかろうと思うんだがね、私《わたし》ゃ」
「そうさ。今更そんな事を持ち出して来たって、こっちで取り合う必要もないだろうじゃないか」
「だから私も突っ跳《ぱ》ねたのさ。今時分そんな事を持ち出すのは、まるで自分の殺した子供を、もう一|返《ぺん》生かしてくれって、御寺様へ頼みに行くようなものだから御止《およ》しなさいって。だけど大将いくら何といっても、坐《すわ》り込んで動《いご》かないんだからね、仕方がない。しかしあの男がああやって今頃私の宅《うち》へのんこのしゃあで遣《や》って来るのも、実はというと、やっぱり昔し|○《れこ》の関係があったからの事さ。だってそりゃ昔しも昔し、ずっと昔しの話でさあ。その上ただで借りやしまいしね、……」
「またただで貸す風でもなしね」
「そうさ。口じゃ親類付合だとか何とかいってるくせに、金にかけちゃあかの他人より阿漕《あこぎ》なんだから」
「来た時にそういって遣れば好いのに」
 比田と兄との談話はなかなか元へ戻って来なかった。ことに比田は其所《そこ》に健三のいるのさえ忘れてしまったように見えた。健三は好加減《いいかげん》に何とか口を出さなければならなくなった。
「一体どうしたんです。島田がこちらへでも突然伺ったんですか」
「いやわざわざ御呼び立て申して置いて、つい自分の勝手ばかり喋舌《しゃべ》って済みません。――じゃ長さん私から健ちゃんに一応その顛末《てんまつ》を御話しする事にしようか」
「ええどうぞ」
 話しは意外にも単純であった。――ある日島田が突然比田の所へ来た。自分も年を取って頼りにするものがいないので心細いという理由の下《もと》に、昔し通り島田姓に復帰してもらいたいからどうぞ健三にそう取り次いでくれと頼んだ。比田もその要求の突飛《とっぴ》なのに驚ろいて最初は拒絶した。しかし何といっても動かないので、ともかくも彼の希望だけは健三に通じようと受合った。――ただこれだけなのである。
「少し変ですねえ」
 健三にはどう考えても変としか思われなかった。
「変だよ」
 兄も同じ意見を言葉にあらわした。
「どうせ変にゃ違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」
「慾《よく》でやきが廻りゃしないか」
 比田も兄も可笑《おか》しそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。彼は何時までも変だと思う気分に制せられていた。彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありようはずがなかった。彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。最後に彼の留守に旅先から帰ったといって、島田が一人で訪ねて来た時の言葉を思い出した。しかしどこをどう思い出しても、其所《そこ》からこんな結果が生れて来《き》ようとは考えられなかった。
「どうしても変ですね」
 彼は自分のために同じ言葉をもう一度繰り返して見た。それから漸《やっ》と気を換えてこういった。
「しかしそりゃ問題にゃならないでしょう。ただ断りさえすりゃ好いんだから」

     二十八

 健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。従ってそれを片付けるのも容易であった。ただ簡単に断りさえすれば済んだ。
「しかし一旦は貴方《あなた》の御耳まで入れて置かないと、私《わたくし》の落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。彼はどこまでもこの会合を真面目《まじめ》なものにしなければ気が済まないらしかった。それで言う事も時によって変化した。
「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」
「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。
「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、私《わたし》だってその場ですぐ断っちまいまさあ」
 こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、其所《そこ》へ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。
「いえ何御礼なんぞ御仰《おっしゃ》られると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。誰が見ても宅《うち》へも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。
 彼は其所にある塩煎餅《しおせんべい》を取ってやたらにぼりぼり噛《か》んだ。そうしてその相間《あいま》々々には大きな湯呑《ゆのみ》へ茶を何杯も注《つ》ぎ易《か》えて飲んだ。
「相変らず能《よ》く食べますね。今でも鰻飯《うなぎめし》を二つ位|遣《や》るんでしょう」
「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦《そば》を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」
 比田はその頃から食気《くいけ》の強い男であった。そうして余計食うのを自慢にしていた。それから腹の太いのを賞《ほ》められたがって、時機さえあれば始終|叩《たた》いて見せた。
 健三は昔しこの人に連れられて寄席《よせ》などに行った帰りに、能く二人して屋台店《やたいみせ》の暖簾《のれん》を潜《くぐ》って、鮨《すし》や天麩羅《てんぷら》の立食《たちぐい》をした当時を思い出した。彼は健三にその寄席で聴いたしかおどり[#「しかお
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