あった。
「軍人なんですか、その御縫さんて人の御嫁に行った所は」
 健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらく間《ま》を置いたあとでこんな問《とい》を掛けた。
「能《よ》く知ってるね」
「何時《いつ》か御兄《おあにい》さんから伺いましたよ」
 健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。柴野は肩の張った色の黒い人であったが、眼鼻立《めはなだち》からいうとむしろ立派な部類に属すべき男に違なかった。御縫さんはまたすらりとした恰好《かっこう》の好《い》い女で、顔は面長《おもなが》の色白という出来であった。ことに美くしいのは睫毛《まつげ》の多い切長《きれなが》のその眼のように思われた。彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門を潜《くぐ》った記憶を有《も》っていた。その時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、長火鉢《ながひばち》の猫板《ねこいた》の上にある洋盃《コップ》から冷酒《ひやざけ》をぐいぐい飲んだ。御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で鬢《びん》を撫《な》でつけていた。彼はまた自分の分として取り配《わ》けられた握《にぎ》り鮨《すし》をしきりに皿の中から撮《つま》んで食べた。……
「御縫さんて人はよっぽど容色《きりょう》が好いんですか」
「何故《なぜ》」
「だって貴夫《あなた》の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」
 なるほどそんな話もない事はなかった。健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田の家《うち》へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝《どぶ》に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら出合頭《であいがしら》の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙《ドイツ》語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚《よ》って待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは年歯《とし》からいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪《こうお》も有《も》たなかった。それから羞恥《はにかみ》に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球《ゴムだま》のように、かえって女から弾《はじ》き飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他《ほか》に面倒のあるなしを差措《さしお》いて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。

     二十三

「貴夫《あなた》どうしてその御縫さんて人を御貰《おもら》いにならなかったの」
 健三は膳《ぜん》の上から急に眼を上げた。追憶の夢を愕《おど》ろかされた人のように。
「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに己《おれ》はまだ子供だったしね」
「あの人の本当の子じゃないんでしょう」
「無論さ。御縫さんは御藤《おふじ》さんの連れっ子だもの」
 御藤さんというのは島田の後妻の名であった。
「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」
「どうなってるか判《わか》らないじゃないか、なって見なければ」
「でも殊《こと》によると、幸福かも知れませんわね。その方が」
「そうかも知れない」
 健三は少し忌々《いまいま》しくなった。細君はそれぎり口を噤《つぐ》んだ。
「何故《なぜ》そんな事を訊《き》くのだい。詰らない」
 細君は窘《たし》なめられるような気がした。彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。
「どうせ私《わたくし》は始めっから御気に入らないんだから……」
 健三は箸《はし》を放り出して、手を頭の中に突込んだ。そうして其所《そこ》に溜《たま》っている雲脂《ふけ》をごしごし落し始めた。
 二人はそれなり別々の室《へや》で別々の仕事をした。健三は御機嫌ようと挨拶《あいさつ》に来た子供の去った後で、例の如く書物を読んだ。細君はその子供を寐《ね》かした後で、昼の残りの縫物を始めた。
 御縫さんの話がまた二人の間の問題になったのは、中一日置いた後《あと》の事で、それも偶然の切ッ懸けからであった。
 その時細君は一枚の端書を持って、健三の部屋へ這入《はい》って来た。それを夫の手に渡した彼女は、何時ものようにそのまま立ち去ろうともせずに、彼の傍《そば》に腰を卸した。健三が受取った端書を手に持ったなり何時までも読みそうにしないので、我慢しきれなくなった細君はついに夫を促した。
「あなたその端書は比田《ひだ》さんから来たんですよ」
 健三は漸《よう》やく書物から眼を放した。
「あの人の事で何か用事が出来たんですって」
 なるほど端書には島田の事で会いたいからちょっと来てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあった。わざわざ彼を呼び寄せる失礼も鄭寧《ていねい》に詫《わ》びてあった。
「どうしたんでしょう」
「まるで判明《わか》らないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」
「みんなで交際《つきあ》っちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。御兄《おあにい》さんもいらっしゃると書いてあるでしょう、其所《そこ》に」
 端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。
 兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望を有《も》っていたらしかったのである。
「健ちゃんの宅《うち》とこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんの家《うち》へ行かれるんだけれども」
 御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。
「だって御縫さんが今|嫁《かたづ》いてる先は元からの許嫁《いいなずけ》なんでしょう」
「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」
「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」
「そんな事が判明《わか》るもんか」
「じゃ御兄《おあにい》さんの方はどうなの」
「それも判明らんさ」
 健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。

     二十四

 健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた津《つ》の守坂《かみざか》へ出掛けた。
 彼は時間に対して頗《すこ》ぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きると寐《ね》るまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。
 彼は途々《みちみち》自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。
 彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の歇私的里《ヒステリー》は、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。
 彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所に纏《まと》めて考えなければならなかった。凡《すべ》てが頽廃《たいはい》の影であり凋落《ちょうらく》の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。
 姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。
「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶《あいさつ》した。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。
「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって遣《や》り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方《あなた》と御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」
 比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先《つとめさき》の近所に囲っているという噂《うわさ》はまるで嘘《うそ》のようであった。
 古風な言葉で形容すれば、ただ算筆《さんぴつ》に達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえ湧《わ》いた。
「姉さんは」
「それに御夏《おなつ》がまた例の喘息《ぜんそく》でね」
 姉は比田のいう通り針箱の上に載せた括《くく》り枕《まくら》に倚《よ》りかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間を覗《のぞ》きに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。
「どうです」
 彼女は頭を真直《まっすぐ》に上る事さえ叶《かな》わないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉《のど》に障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽《せき》の発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、傍《はた》で見ていても気が退《ひ》けた。
「苦しそうだな」
 彼は独り言のようにこう囁《つぶ》やいて、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
 見馴れない四十|恰好《がっこう》の女が、姉の後《うしろ》から脊中《せなか》を撫《さす》っている傍に、一本の杉箸《すぎばし》を添えた水飴《みずあめ》の入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。
「どうも一昨日《おととい》からね、あなた」
 姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、目前《まのあたり》この猛烈な咳嗽《せき》と消え入るような呼息遣《いきづかい》とを見ていると、病気に罹《かか》った当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。
「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。私《わたし》はあっちへ行くから」
 発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。

     二十五

 比田は平気な顔をして本を読んでいた。「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、自然《じねん》と末枯《すが》れて来る気の毒な女房の姿は、この男にとって毫《ごう》も感傷の種にならないように見えた。実際彼は三十年近くも同棲《どうせい》して来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けた例《ためし》のない男であった。
 健三の這入《はい》って来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、鉄縁《てつぶち》の眼鏡《めがね》を外した。
「今ちょっと貴方《あなた》が茶の間へ行っていらしった間に、下《くだ》らないものを読み出したんです」
 比田と読書《とくしょ》――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。
「何ですか、それは」
「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」
 比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。それが意外にも『常山紀談《じょうざんきだん》』だったので健三は少し驚ろいた。それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢で咳《せ》き込んでいるのを、まるで余所事《よそごと》のように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、如何《いか》にも能《よ》くこの男の性質をあらわしていた。
「私《わたし》ゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」
 彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。しかしそれを書いた湯浅常山《ゆあさじょうざん》を講釈師と間違えるほどでもなかった。
「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。曲亭馬琴《きょくていばきん》とどっちでしょう。私ゃ馬琴の『八犬伝《はっけんでん》』も持っているんだが」
 なるほど彼
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