見えた。不穏の言葉は無論、強請《ゆすり》がましい様子は噫《おくび》にも出さなかった。
十三
これで吉田の持って来た用件の片が付いたものと解釈した健三は、心のうちで暗《あん》に彼の帰るのを予期した。しかし彼の態度は明らかにこの予期の裏を行った。金の問題にはそれぎり触れなかったが、毒にも薬にもならない世間話を何時までも続けて動かなかった。そうして自然天然|話頭《わとう》をまた島田の身の上に戻して来た。
「どんなものでしょう。老人も取る年で近頃は大変心細そうな事ばかりいっていますが、――どうかして元通りの御交際《おつきあい》は願えないものでしょうか」
健三はちょっと返答に窮した。仕方なしに黙って二人の間に置かれた烟草盆《タバコぼん》を眺めていた。彼の頭のなかには、重たそうに毛繻子《けじゅす》の洋傘《こうもり》をさして、異様の瞳を彼の上に据えたその老人の面影がありありと浮かんだ。彼はその人の世話になった昔を忘れる訳に行かなかった。同時に人格の反射から来るその人に対しての嫌悪《けんお》の情も禁ずる事が出来なかった。両方の間に板挟みとなった彼は、しばらく口を開き得なかった。
「手前も折角こうして上がったものですから、これだけはどうぞ曲げて御承知を願いたいもので」
吉田の様子はいよいよ丁寧になった。どう考えても交際《つきあう》のは厭《いや》でならなかった健三は、またどうしてもそれを断わるのを不義理と認めなければ済まなかった。彼は厭でも正しい方に従おうと思い極《きわ》めた。
「そういう訳なら宜《よろ》しゅう御座います。承知の旨《むね》を向《むこう》へ伝えて下さい。しかし交際は致しても、昔のような関係ではとても出来ませんから、それも誤解のないように申し伝えて下さい。それから私《わたし》の今の状況では、私の方から時々出掛けて行って老人に慰藉《いしゃ》を与えるなんて事は六《む》ずかしいのですが……」
「するとまあただ御出入《おでいり》をさせて頂くという訳になりますな」
健三には御出入という言葉を聞くのが辛《つら》かった。そうだともそうでないともいいかねて、また口を閉じた。
「いえなにそれで結構で、――昔と今とは事情もまるで違ますから」
吉田は自分の役目が漸《ようや》く済んだという顔付をしてこういった後《あと》、今まで持ち扱っていた烟草入を腰へさしたなり、さっさと帰って行った。
健三は彼を玄関まで送り出すと、すぐ書斎へ入った。その日の仕事を早く片付けようという気があるので、いきなり机へ向ったが、心のどこかに引懸りが出来て、なかなか思う通りに捗取《はかど》らなかった。
其所《そこ》へ細君がちょっと顔を出した。「あなた」と二返ばかり声を掛けたが、健三は机の前に坐ったなり振り向かなかった。細君がそのまま黙って引込《ひっこ》んだ後、健三は進まぬながら仕事を夕方まで続けた。
平生《へいぜい》よりは遅くなって漸く夕食《ゆうめし》の食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換わした。
「先刻《さっき》来た吉田って男は一体何なんですか」と細君が訊《き》いた。
「元高崎で陸軍の用達《ようたし》か何かしていたんだそうだ」と健三が答えた。
問答は固《もと》よりそれだけで尽きるはずがなかった。彼女は吉田と柴野との関係やら、彼と島田との間柄やらについて、自分に納得の行くまで夫から説明を求めようとした。
「どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう」
「まあそうだ」
「それで貴方《あなた》どうなすって、――どうせ御断りになったでしょうね」
「うん、断った。断るより外に仕方がないからな」
二人は腹の中で、自分らの家《うち》の経済状態を別々に考えた。月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それで凡《すべ》てを賄《まかな》って行く細君に取っても、少しも裕《ゆたか》なものとはいわれなかった。
十四
健三はそれぎり座を立とうとした。しかし細君にはまだ訊《き》きたい事が残っていた。
「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」
「だって断られれば仕方がないじゃないか。喧嘩《けんか》をする訳にも行かないんだから」
「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」
「来ても構わないさ」
「でも厭《いや》ですわ、蒼蠅《うるさ》くって」
健三は細君が次の間で先刻《さっき》の会話を残らず聴いていたものと察した。
「御前聴いてたんだろう、悉皆《すっかり》」
細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。
「じゃそれで好《い》いじゃないか」
健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君もそうした点において夫の権利を認める女であった。けれども表向《おもてむき》夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった。事々《ことごと》について出て来る権柄《けんぺい》ずくな夫の態度は、彼女に取って決して心持の好いものではなかった。何故《なぜ》もう少し打ち解けてくれないのかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働らいた。そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技倆《ぎりょう》も自分に充分具えていないという事実には全く無頓着《むとんじゃく》であった。
「あなた島田と交際《つきあ》っても好いと受合っていらしったようですね」
「ああ」
健三はそれがどうしたといった風の顔付をした。細君は何時でも此所《ここ》まで来て黙ってしまうのを例にしていた。彼女の性質として、夫がこういう態度に出ると、急に厭気《いやき》がさして、それから先一歩も前へ出る気になれないのである。その不愛想な様子がまた夫の気質に反射して、益《ますます》彼を権柄ずくにしがちであった。
「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、己《おれ》一人で極《き》めたって」
「そりゃ私《わたくし》に対して何も構って頂かなくっても宜《よ》ござんす。構ってくれったって、どうせ構って下さる方じゃないんだから、……」
学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。そうしてその脱線はどうしても頭の悪い証拠としか思われなかった。「また始まった」という気が腹の中でした。しかし細君はすぐ当の問題に立ち戻って、彼の注意を惹《ひ》かなければならないような事をいい出した。
「しかし御父さまに悪いでしょう。今になってあの人と御交際《おつきあい》いになっちゃあ」
「御父さまって己《おれ》のおやじかい」
「無論|貴方《あなた》の御父さまですわ」
「己のおやじはとうに死んだじゃないか」
「しかし御亡くなりになる前、島田とは絶交だから、向後《こうご》一切|付合《つきあい》をしちゃならないって仰《おっ》しゃったそうじゃありませんか」
健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。しかし彼は自分の父に対してさほど情愛の籠《こも》った優しい記憶を有《も》っていなかった。その上絶交|云々《うんぬん》についても、そう厳重にいい渡された覚《おぼえ》はなかった。
「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己は話したつもりはないがな」
「貴方じゃありません。御兄《おあにい》さんに伺ったんです」
細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。
「おやじは阿爺《おやじ》、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」
こういい切った健三は、腹の中でその交際《つきあい》が厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、徒《いたず》らに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。
十五
健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵《こし》らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着《とんじゃく》しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦《ボタン》が二つ並んでいて、胸は開《あ》いたままであった。霜降の羅紗《ラシャ》も硬くごわごわして、極めて手触《てざわり》が粗《あら》かった。ことに洋袴《ズボン》は薄茶色に竪溝《たてみぞ》の通った調馬師でなければ穿《は》かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。
彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い鍋底《なべぞこ》のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾《ずきん》のように被《かぶ》るのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、寄席《よせ》へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か撫《な》でまわして見た事もあった。
その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵《むしゃえ》、錦絵《にしきえ》、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の身体《からだ》にあう緋縅《ひおど》しの鎧《よろい》と竜頭《たつがしら》の兜《かぶと》さえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙《きんがみ》で拵えた采配《さいはい》を振り舞わした。
彼はまた子供の差す位な短かい脇差《わきざし》の所有者であった。その脇差の目貫《めぬき》は、鼠が赤い唐辛子《とうがらし》を引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と珊瑚《さんご》で拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差は何時《いつ》も抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。
彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと腰蓑《こしみの》を着けた船頭がいて網を打った。いな[#「いな」に傍点]だの鰡《ぼら》だのが水際まで来て跳ね躍《おど》る様が小さな彼の眼に白金《しろがね》のような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ漕《こ》いで行って、海※[#「魚+喞のつくり」、第3水準1−94−46]《かいず》というものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ寐《ね》てしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは河豚《ふぐ》の網にかかった時であった。彼は杉箸《すぎばし》で河豚の腹をかんから[#「かんから」に傍点]太鼓《だいこ》のように叩《たた》いて、その膨《ふく》れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。……
吉田と会見した後《あと》の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧《わ》いて来る事があった。凡《すべ》てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明《あざやか》に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕《れいさい》の事実を手繰《たぐ》り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自《おのおの》のうちには必ず帽子を披《かぶ》らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えているくせに、何故《なぜ》自分の有《も》っていたその頃の心が思い出せないのだろう」
これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。
「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合《じょうあい》が欠けていたのかも知れない」
健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。
彼はこの事件について思い出した幼少
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