の時の記憶を細君に話さなかった。感情に脆《もろ》い女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。

     十六

 待ち設けた日がやがて来た。吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。
 健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をして好《い》いか解らなかった。思慮なしにそれらを極《き》めてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。彼は二十年余も会わない人と膝《ひざ》を突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。
 島田はかねて横風《おうふう》だという評判のある男であった。健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心を傷《きずつ》けられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。
 しかし島田は思ったよりも鄭寧《ていねい》であった。普通|初見《しょけん》の人が挨拶《あいさつ》に用いる「ですか」とか、「ません」とかいうてには[#「てには」に傍点]で、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないように見えた。健三はむかしその人から健坊《けんぼう》々々と呼ばれた幼い時分を思い出した。関係が絶えてからも、会いさえすれば、やはり同じ健坊々々で通すので、彼はそれを厭《いや》に感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。
「しかしこの調子なら好《い》いだろう」
 健三はそれで、出来るだけ不快の顔を二人に見せまいと力《つと》めた。向うもなるべく穏かに帰るつもりと見えて、少しも健三の気を悪くするような事はいわなかった。それがために、当然双方の間に話題となるべき懐旧談なども殆《ほとん》ど出なかった。従って談話はややともすると途切れがちになった。
 健三はふと雨の降った朝の出来事を考えた。
「この間二度ほど途中で御目にかかりましたが、時々あの辺を御通りになるんですか」
「実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから」
 高橋というのは誰の事だか健三には一向解らなかった。
「はあ」
「そら知ってるでしょう。あの芝《しば》の」
 島田の後妻の親類が芝にあって、其所《そこ》の家《うち》は何でも神主《かんぬし》か坊主だという事を健三は子供心に聞いて覚えているような気もした。しかしその親類の人には、要《よう》さんという彼とおない年位な男に二、三遍会ったぎりで、他《ほか》のものに顔を合せた記憶はまるでなかった。
「芝というと、たしか御藤《おふじ》さんの妹さんに当る方《かた》の御嫁にいらしった所でしたね」
「いえ姉ですよ。妹ではないんです」
「はあ」
「要三《ようぞう》だけは死にましたが、あとの姉妹《きょうだい》はみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら総領のは、多分知っておいでだろう、――へ行ったんです」
 ――という名前はなるほど健三に耳新しいものではなかった。しかしそれはもうよほど前に死んだ人であった。
「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、叔父《おじ》さん叔父さんて重宝がられましてね。それに近頃は宅《うち》に手入《ていれ》をするんで監督の必要が出来たものだから、殆ど毎日のように此所《ここ》の前を通ります」
 健三は昔この男につれられて、池《いけ》の端《はた》の本屋で法帖《ほうじょう》を買ってもらった事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例《ためし》のないこの人は、その時も僅《わず》か五厘の釣銭《つり》を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。董其昌《とうきしょう》の折手本《おりでほん》を抱えて傍《そば》に佇立《たたず》んでいる彼に取ってはその態度が如何《いか》にも見苦しくまた不愉快であった。
「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」
 健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑を洩《も》らした。しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。

     十七

「でも御蔭さまで、本を遺《のこ》して行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか遣《や》って行けるんです」
 島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。字引《じびき》か教科書だろうとは推察したが、別に訊《き》いて見る気にもならなかった。
「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」
 健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲《もう》けるには本に限るような事をいった。
「御祝儀は済んだが、――が死んだ時|後《あと》が女だけだもんだから、実は私《わたし》が本屋に懸け合いましてね。それで年々いくらと極《き》めて、向うから収めさせるようにしたんです」
「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ資金《もとで》が要《い》るようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの好《い》い訳になるんだから、無学のものはとても敵《かな》いませんな」
「結局得ですよ」
 彼らの応対は健三に何の興味も与えなかった。その上いくら相槌《あいづち》を打とうにも打たれないような変な見当へ向いて進んで行くばかりであった。手持無沙汰《てもちぶさた》な彼は、やむをえず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。
 その庭はまた見苦しく手入の届かないものであった。何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに蒼黒《あおぐろ》い葉を垣根の傍《そば》に茂らしている外《ほか》に、木らしい木は殆《ほとん》どなかった。箒《ほうき》に馴染《なず》まない地面は小石|交《まじ》りに凸凹《でこぼこ》していた。
「こちらの先生も一つ御儲《おもう》けになったら如何《いかが》です」
 吉田は突然健三の方を向いた。健三は苦笑しない訳に行かなかった。仕方なしに「ええ儲けたいものですね」といって跋《ばつ》を合せた。
「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」
 これは年寄の言葉であった。それがあたかも自分で学資でも出して、健三を洋行させたように聞こえたので、彼は厭《いや》な顔をした。しかし老人は一向そんな事に頓着《とんじゃく》する様子も見えなかった。迷惑そうな健三の体《てい》を見ても澄ましていた。しまいに吉田が例の烟草入《タバコいれ》を腰へ差して、「では今日《こんにち》はこれで御暇《おいとま》を致す事にしましょうか」と催促したので、彼は漸《ようや》く帰る気になったらしかった。
 二人を送り出してまたちょっと座敷へ戻った健三は、再び座蒲団《ざぶとん》の上に坐ったまま、腕組をして考えた。
「一体何のために来たのだろう。これじゃ他《ひと》を厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで向《むこう》は面白いのだろうか」
 彼の前には先刻《さっき》島田の持って来た手土産《てみやげ》がそのまま置いてあった。彼はぼんやりその粗末な菓子折を眺めた。
 何にもいわずに茶碗《ちゃわん》だの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。
「あなたまだ其処《そこ》に坐っていらっしゃるんですか」
「いやもう立っても好い」
 健三はすぐ立上《たちあが》ろうとした。
「あの人たちはまた来るんでしょうか」
「来るかも知れない」
 彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折を奪《と》り合う子供の声がした。凡《すべ》てがやがて静《しずか》になったと思う頃、黄昏《たそがれ》の空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。

     十八

 雨の降る日が幾日《いくか》も続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日|欝陶《うっとう》しい思いをして、縫針《ぬいはり》にばかり気をとられていた細君は、縁鼻《えんばな》へ出てこの蒼《あお》い空を見上げた。それから急に箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けた。
 彼女が服装を改ためて夫の顔を覗《のぞ》きに来た時、健三は頬杖《ほおづえ》を突いたまま盆槍《ぼんやり》汚ない庭を眺めていた。
「あなた何を考えていらっしゃるの」
 健三はちょっと振り返って細君の余所行姿《よそゆきすがた》を見た。その刹那《せつな》に爛熟《らんじゅく》した彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。
「どこかへ行くのかい」
「ええ」
 細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。彼はまたもとの佗《わ》びしい我に帰った。
「子供は」
「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜《やかま》しくって御蒼蠅《おうるさ》いでしょうから」
 その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。
 細君の帰って来たのは、彼が夕飯《ゆうめし》を済ましてまた書斎へ引き取った後《あと》なので、もう灯《あかり》が点《つ》いてから一、二時間経っていた。
「ただ今」
 遅くなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌《ぶあいきょう》が、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介《なかだち》となった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。
 話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲の好《い》い夫婦でもなかった。またそれだけの親しみを現わすには、御互が御互に取ってあまりに陳腐《ちんぷ》過ぎた。
 二、三日経ってから細君は始めてその日外出した折の事を食事の時話題に上《のぼ》せた。
「此間《こないだ》宅《うち》へ行ったら、門司《もじ》の叔父《おじ》に会いましてね。随分驚ろいちまいました。まだ台湾にいるのかと思ったら、何時の間にか帰って来ているんですもの」
 門司の叔父というのは油断のならない男として彼らの間に知られていた。健三がまだ地方にいる頃、彼は突然汽車で遣《や》って来て、急に入用《いりよう》が出来たから、是非とも少し都合してくれまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を些少《さしょう》ながら用立てたら、立派に印紙を貼《は》った証文を後から郵便で送って来た。その中に「但し利子の儀は」という文句まで書き添えてあったので、健三はむしろ堅過ぎる人だと思ったが、貸した金はそれぎり戻って来なかった。
「今何をしているのかね」
「何をしているんだか分りゃしません。何とかの会社を起すんで、是非健三さんにも賛成してもらいたいから、その内|上《あが》るつもりだっていってました」
 健三にはその後を訊《き》く必要もなかった。彼が昔し金を借りられた時分にも、この叔父は何かの会社を建てているとかいうので彼はそれを本当にしていた。細君の父もそれを疑わなかった。叔父はその父を旨《うま》く説きつけて、門司まで引張って行った。そうしてこれが今建築中の会社だといって、縁もゆかりもない他人の建てている家を見せた。彼は実にこの手段で細君の父から何千かの資本を捲《ま》き上げたのである。
 健三はこの人についてこれ以上何も知りたがらなかった。細君もいうのが厭らしかった。しかし何時もの通り会話は其所《そこ》で切れてしまわなかった。
「あの日はあまり好《い》い御天気だったから、久しぶりで御兄《おあにい》さんの所へも廻って来ました」
「そうか」
 細君の里は小石川台町《こいしかわだいまち》で、健三の兄の家《うち》は市ヶ谷薬王寺前《いちがややくおうじまえ》だから、細君の訪問は大した迂回《まわりみち》でもなかった。

     十九

「御兄《おあにい》さんに島田の来た事を話したら驚ろいていらっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」
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