むしろ皮肉であった。
「元来一文も出さないといったって、貴方《あなた》の方じゃどうする事も出来ないんでしょう。百円で悪けりゃ御止《およ》しなさい」
 相手は漸《ようや》く懸引《かけひき》をやめた。
「じゃともかくも本人によくそう話して見ます。その上でまた上《あが》る事にしますから、どうぞ何分」
 その人が帰った後で健三は細君に向った。
「とうとう来た」
「どうしたっていうんです」
「また金を取られるんだ。人さえ来れば金を取られるに極《きま》ってるから厭だ」
「馬鹿らしい」
 細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかった。
「だって仕方がないよ」
 健三の返事も簡単であった。彼は其所《そこ》へ落付くまでの筋道を委《くわ》しく細君に話してやるのさえ面倒だった。
「そりゃ貴夫《あなた》の御金を貴夫が御遣りになるんだから、私《わたくし》何もいう訳はありませんわ」
「金なんかあるもんか」
 健三は擲《たた》き付けるようにこういって、また書斎へ入った。其所には鉛筆で一面に汚《よご》された紙が所々赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。彼はすぐ洋筆《ペン》を取り上げた。そうして既に汚れたものをなおさら赤く汚さなければならなかった。
 客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のためまた読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。
「神でない以上公平は保てない」
 彼はあやふや[#「あやふや」に傍点]な自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。しかし積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。漸く一組を元のように折るとまた新らしく一組を開かなければならなかった。
「神でない以上辛抱だってし切れない」
 彼はまた洋筆《ペン》を放り出した。赤い印気《インキ》が血のように半紙の上に滲《にじ》んだ。彼は帽子を被《かぶ》って寒い往来へ飛び出した。

     九十七

 人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟《ひっきょう》何をしに世の中に生れて来たのだ」
 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
 その声は忽《たちま》ちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所《そこ》へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」
「己《おれ》のせいじゃない。己のせいじゃない」
 健三は逃げるようにずんずん歩いた。
 賑《にぎ》やかな通りへ来た時、迎年の支度に忙しい外界は驚異に近い新らしさを以て急に彼の眼を刺撃《しげき》した。彼の気分は漸《ようや》く変った。
 彼は客の注意を惹《ひ》くために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた店頭《みせさき》を、それからそれと覗《のぞ》き込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹《さんごじゅ》の根懸《ねがけ》だの、蒔絵《まきえ》の櫛笄《くしこうがい》だのを、硝子越《ガラスごし》に何の意味もなく長い間眺めていた。
「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」
 少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君も殆《ほと》んど何にも買わないといってよかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな年を越すのに苦しんでいる連中《れんじゅう》ばかりであった。中にも細君の父は一番|非道《ひど》そうに思われた。
「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」
 借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けたついでに、細君はかつてこんな事をいった。
 それは内閣の瓦解《がかい》した当時であった。細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分たちの退《しり》ぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。しかし多数の候補者の中《うち》から、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。彼はついに選に洩《も》れた。何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門に逼《せま》った。官邸を引き払った時に召仕《めしつかい》の数を減らした彼は、少時《しばら》くして自用俥《じようぐるま》を廃した。しまいにわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。日を重ね月を追って益《ますます》悲境に沈んで行った。
「相場に手を出したのが悪いんですよ」
 細君はこんな事もいった。
「御役人をしている間は相場師の方で儲《もう》けさせてくれるんですって。だから好《い》いけれども、一旦役を退《ひ》くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」
「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」
「貴方《あなた》に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」
「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものに極《きま》っちまうじゃないか。馬鹿な女だな」
 健三はその時細君と取り換わせた談話まで憶《おも》い出した。
 彼はふと気が付いた。彼と擦《す》れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙がしそうであった。みんな一定の目的を有《も》っているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。
 或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥《いちべつ》を与えた。
「御前は馬鹿だよ」
 稀《まれ》にはこんな顔付をするものさえあった。
 彼はまた宅《うち》へ帰って赤い印気《インキ》を汚《きた》ない半紙へなすくり始めた。

     九十八

 二、三日すると島田に頼まれた男がまた刺《し》を通じて面会を求めに来た。行掛り上断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び坐《すわ》るべく余儀なくされた。
「どうも御忙がしいところを度々《たびたび》出まして」
 彼は世事慣れた男であった。口で気の毒そうな事をいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。
「実はこの間の事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで宜《よろ》しい、その代りどうか年内に頂戴《ちょうだい》致したい、とこういうんですがね」
 健三にはそんな見込がなかった。
「年内たってもう僅《わず》かの日数しかないじゃありませんか」
「だから向うでも急ぐような訳でしてね」
「あれば今すぐ上げても好《い》いんです。しかしないんだから仕方がないじゃありませんか」
「そうですか」
 二人は少時《しばらく》無言のままでいた。
「どうでしょう、其所《そこ》のところを一つ御奮発は願われますまいか。私《わたくし》も折角こうして忙がしい中を、島田さんのために、わざわざ遣《や》って来たもんですから」
 それは彼の勝手であった。健三の心を動かすに足るほどの手数《てかず》でも面倒でもなかった。
「御気の毒ですが出来ませんね」
 二人はまた沈黙を間に置いて相対《あいたい》した。
「じゃ何時頃頂けるんでしょう」
 健三には何時という目的《あて》もなかった。
「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」
「私もこうして頼まれて上《あが》った以上、何とか向《むこう》へ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つ御取極《おとりきめ》を願いたいと思いますが」
「御尤《ごもっと》もです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」
 健三はそれより外にいいようがなかった。相手は仕方なしに帰って行った。
 その晩寒さと倦怠《けんたい》を凌《しの》ぐために蕎麦湯《そばゆ》を拵《こしら》えてもらった健三は、どろどろした鼠色のものを啜《すす》りながら、盆を膝《ひざ》の上に置いて傍《そば》に坐っている細君と話し合った。
「また百円どうかしなくっちゃならない」
「貴夫《あなた》が遣《や》らないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」
「遣らないでもいいのだけれども、己《おれ》は遣るんだ」
 言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。
「そう依故地《えこじ》を仰《おっ》しゃればそれまでです」
「御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに、自分にゃ大変形式ばった所のある女だね」
「貴夫こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」
「理窟と形式とは違うさ」
「貴夫のは同なじですよ」
「じゃいって聞かせるがね、己は口にだけ論理《ロジック》を有《も》っている男じゃない。口にある論理は己の手にも足にも、身体《からだ》全体にもあるんだ」
「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」
「空っぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿の粉《こ》のようなもので、理窟が中《うち》から白く吹き出すだけなんだ。外部《そと》から喰付《くっつ》けた砂糖とは違うさ」
 こんな説明が既に細君には空っぽうな理窟であった。何でも眼に見えるものを、しっかと手に掴《つか》まなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。またしようと思っても出来なかった。
「御前が形式張るというのはね。人間の内側はどうでも、外部《そと》へ出た所だけを捉《つら》まえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度御前の御父《おとっ》さんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁《いんねん》がないと考えているようなもので……」
「父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。私だってそう外部《うわべ》ばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんな僻《ひが》んだ眼で他《ひと》を見ていらっしゃるから……」
 細君の瞼《まぶた》から涙がぽたぽた落ちた。いう事がその間に断絶した。島田に遣る百円の話しが、飛んだ方角へ外《そ》れた。そうして段々こんがらか[#「こんがらか」に傍点]って来た。

     九十九

 また二、三日して細君は久しぶりに外出した。
「無沙汰《ぶさた》見舞《みまい》かたがた少し歳暮に廻って来ました」
 乳呑児《ちのみご》を抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒い頬《ほお》を赤くして、暖かい空気の裡《なか》に尻《しり》を落付《おちつけ》た。
「御前の宅《うち》はどうだい」
「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」
 健三は挨拶《あいさつ》の仕様もなかった。
「あの紫檀《したん》の机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いから止《よ》しました」
 舞葡萄《まいぶどう》とかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな唐机《とうづくえ》は、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金の抵当《かた》に取った細君の父は、同じ運命の下《もと》に、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。
「縁起はどうでも好《い》いが、そんな高価《たか》いものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」
 健三は苦笑しながら烟草《タバコ》を吹かした。
「そういえば貴夫《あなた》、あの人に遣《や》る御金を比田《ひだ》さんから借りなくって」
 細君は藪《やぶ》から棒にこんな事をいった。
「比田にそれだけの余裕があるのかい」
「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」
 健三はこの新らしい報知を当然とも思った。また異様にも感じた。
「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」
「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当《さしあた》り困るような事はないんですって」
 彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしか
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