った。けれども永年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべき金は、一時彼の経済状態を潤おすには充分であった。
「居食《いぐい》をしていても詰らないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」
「へえ、とうとう金貸を遣るようになったのかい」
健三は平生《へいぜい》から島田の因業を嗤《わら》っていた比田だの姉だのを憶《おも》い浮べた。自分たちの境遇が変ると、昨日《きのう》まで軽蔑《けいべつ》していた人の真似《まね》をして恬《てん》として気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点においてむしろ子供|染《じ》みていた。
「どうせ高利なんだろう」
細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。
「何でも旨《うま》く運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長く遣って行くつもりだって、御姉《おあね》えさんがそう仰《おっし》ゃいましたよ」
健三は姉のいう利子の高から胸算用《むなざんよう》で元金《もときん》を勘定して見た。
「悪くすると、またみんな損《す》っちまうだけだ。それよりそう慾張《よくばら》ないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」
「だから確《たしか》な人に貸したいっていうんでしょう」
「確な人はそんな金は借りないさ。怖いからね」
「だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう」
「それじゃ己《おれ》だって借りるのは厭《いや》ださ」
「御兄《おあに》いさんも困っていらしってよ」
比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄に金を借りてくれと頼んだのだそうである。
「馬鹿だな。金を借りてくれ、借りてくれって、こっちから頼む奴もないじゃないか。兄貴だって金は欲しいだろうが、そんな剣呑《けんのん》な思いまでして借りる必要もあるまいからね」
健三は苦々しいうちにも滑稽《こっけい》を感じた。比田の手前勝手な気性がこの一事でも能《よ》く窺《うかが》われた。それを傍《はた》で見て澄ましている姉の料簡《りょうけん》も彼には不可思議であった。血が続いていても姉弟《きょうだい》という心持は全くしなかった。
「御前己が借りるとでもいったのかい」
「そんな余計な事いやしません」
百
利子の安い高いは別問題として、比田から融通してもらうという事が、健三にはとても真面目《まじめ》に考えられなかった。彼は毎月《まいげつ》いくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。その姉の亭主から今度はこっちで金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映る位明白であった。
「辻褄《つじつま》の合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが」
こういい掛けた彼は突然笑いたくなった。
「何だか変だな。考えると可笑《おか》しくなるだけだ。まあ好《い》いや己《おれ》が借りて遣《や》らなくってもどうにかなるんだろうから」
「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。彼所《あすこ》いらの待合《まちあい》か何かへ」
待合という言葉が健三の耳になおさら滑稽《こっけい》に響いた。彼は我を忘れたように笑った。細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うような性質《たち》ではなかった。ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。
滑稽の感じが去った後で反動が来た。健三は比田について不愉快な昔まで思い出させられた。
それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。病人は平生《へいぜい》から自分の持っている両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今に御前に遣ろう」と殆《ほと》んど口癖《くちくせ》のようにいっていた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、何時になったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、暗《あん》に未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。
病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなった人の記念《かたみ》とも見るべきこの品物は、不幸にして質に入れてあった。無論健三にはそれを受出す力がなかった。彼は義姉《あね》から所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。
或日皆なが一つ所に落合った。するとその席上で比田が問題の時計を懐中《ふところ》から出した。時計は見違えるように磨かれて光っていた。新らしい紐《ひも》に珊瑚樹《さんごじゅ》の珠《たま》が装飾として付け加えられた。彼はそれを勿体《もったい》らしく兄の前に置いた。
「それではこれは貴方《あなた》に上げる事にしますから」
傍《そば》にいた姉も殆んど比田と同じような口上を述べた。
「どうも色々御手数《おてかず》を掛けまして、有難う。じゃ頂戴《ちょうだい》します」
兄は礼をいってそれを受取った。
健三は黙って三人の様子を見ていた。三人は殆んど彼の其所《そこ》にいる事さえ眼中に置いていなかった。しまいまで一言《いちごん》も発しなかった彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたような心持がした。しかし彼らは平気であった。彼らの仕打を仇敵《きゅうてき》の如く憎んだ健三も、何故《なぜ》彼らがそんな面中《つらあて》がましい事をしたのか、どうしても考え出せなかった。
彼は自分の権利も主張しなかった。また説明も求めなかった。ただ無言のうちに愛想《あいそう》を尽かした。そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取って一番|非道《ひど》い刑罰に違なかろうと判断した。
「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。貴夫《あなた》も随分執念深いわね。御兄《おあに》いさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう」
細君は健三の顔を見て暗にその気色《けしき》を伺った。健三はちっとも動かなかった。
「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
「御金なんか借りさえしなきゃあ、それで好いじゃありませんか」
こういった細君の胸には、比田たちばかりでなく、自分の事も、自分の生家《さと》の事も勘定に入れてあった。
百一
歳《とし》が改たまった時、健三は一夜《いちや》のうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。
「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ。」
実際彼の周囲には大晦日《おおみそか》も元日もなかった。悉《ことごと》く前の年の引続きばかりであった。彼は人の顔を見て御目出とうというのさえ厭《いや》になった。そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っている方がまだ心持が好かった。
彼は普通の服装《なり》をしてぶらりと表へ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。冬木立《ふゆこだち》と荒た畠《はたけ》、藁葺《わらぶき》屋根と細い流《ながれ》、そんなものが盆槍《ぼんやり》した彼の眼に入《い》った。しかし彼はこの可憐《かれん》な自然に対してももう感興を失っていた。
幸い天気は穏かであった。空風《からかぜ》の吹き捲《まく》らない野面《のづら》には春に似た靄《もや》が遠く懸っていた。その間から落ちる薄い日影もおっとりと彼の身体《からだ》を包んだ。彼は人もなく路《みち》もない所へわざわざ迷い込んだ。そうして融《と》けかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つ所に佇立《たたず》んでいる間に、気分を紛らそうとして絵を描《か》いた。しかしその絵があまり不味《まず》いので、写生はかえって彼を自暴《やけ》にするだけであった。彼は重たい足を引き摺《ず》ってまた宅《うち》へ帰って来た。途中で島田に遣《や》るべき金の事を考えて、ふと何か書いて見ようという気を起した。
赤い印気《インキ》で汚ない半紙をなすくる業《わざ》は漸《ようや》く済んだ。新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用しようとした。彼はまた洋筆《ペン》を執って原稿紙に向った。
健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、また己《おの》れの病気に敵討《かたきうち》でもしたいように。彼は血に餓《う》えた。しかも他《ひと》を屠《ほふ》る事が出来ないのでやむをえず自分の血を啜《すす》って満足した。
予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。
「ああ、ああ」
彼は獣《けだもの》と同じような声を揚げた。
書いたものを金に換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。ただどんな手続きでそれを島田に渡して好《い》いかちょっと迷った。直接の会見は彼も好まなかった。向うももう参上《あが》りませんといい放った最後の言葉に対して、彼の前へ出て来る気のない事は知れていた。どうしても中へ入って取り次ぐ人の必要があった。
「やっぱり御兄《おあにい》さんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでしょう。今までの行掛りもあるんだから」
「まあそうでもするのが、一番適当なところだろう。あんまり有難くはないが。公けな他人を頼むほどの事でもないから」
健三は津守坂《つのかみざか》へ出掛て行った。
「百円遣るの」
驚ろいた姉は勿体《もったい》なさそうな眼を丸くして健三を見た。
「でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。そうしみったれ[#「しみったれ」に傍点]た真似《まね》も出来まいし、それにあの島田って爺《じい》さんが、ただの爺さんと違って、あの通りの悪党《わる》だから、百円位仕方がないだろうよ」
姉は健三の腹にない事まで一人合点《ひとりがてん》でべらべら喋舌《しゃべ》った。
「だけど御正月早々御前さんも随分好い面《つら》の皮さね」
「好い面の皮|鯉《こい》の滝登りか」
先刻《さっき》から傍《そば》に胡坐《あぐら》をかいて新聞を見ていた比田は、この時始めて口を利いた。しかしその言葉は姉に通じなかった。健三にも解らなかった。それをさも心得顔にあははと笑う姉の方が、健三にはかえって可笑《おか》しかった。
「でも健ちゃんは好いね。御金を取ろうとすればいくらでも取れるんだから」
「こちとらとは少し頭の寸法が違うんだ。右大将《うだいしょう》頼朝公《よりともこう》の髑髏《しゃりこうべ》と来ているんだから」
比田は変梃《へんてこ》な事ばかりいった。しかし頼んだ事は一も二もなく引き受けてくれた。
百二
比田と兄が揃《そろ》って健三の宅《うち》を訪問《おとず》れたのは月の半ば頃であつた。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年の香《におい》がした。暮も春もない健三の座敷の中に坐《すわ》った二人は、落付《おちつ》かないように其所《そこ》いらを見廻した。
比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。
「まあこれで漸《ようや》く片が付きました」
その一枚には百円受取った事と、向後《こうご》一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟《て》は誰のとも判断が付かなかったが、島田の印は確かに捺《お》してあった。
健三は「しかる上は後日に至り」とか、「后日《ごじつ》のため誓約|件《くだん》の如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。
「どうも御手数《おてすう》でした、ありがとう」
「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないと何時まで蒼蠅《うるさ》く付け纏《まと》わられるか分ったもんじゃないよ。ねえ長《ちょう》さん」
「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」
比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼には遣《や》らないでもいい百円を好意的に遣ったのだと
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