》何度となく眼を覚ますのを知っていた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどの位強いかの疑問にさえ逢着《ほうちゃく》した。
四、五日前少し強い地震のあった時、臆病《おくびょう》な彼はすぐ縁《えん》から庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へ上《あが》って来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。
「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」
何故《なぜ》子供の安危《あんき》を自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。咄嗟《とっさ》の衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚ろいた。
「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」
「当り前ですわ」
健三は自分が如何《いか》にも不人情のような気がした。
しかし今の彼は我物顔に子供を抱いている細君を、かえって冷《ひやや》かに眺めた。
「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」
しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。
「今にその子供が大きくなって、御前から離れて行く時期が来るに極《きま》っている。御前は己《おれ》と離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」
書斎に落付《おちつ》いた時、彼の感想がまた急に科学的色彩を帯び出した。
「芭蕉《ばしょう》に実が結《な》ると翌年《あくるとし》からその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生むために生きているのか、死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」
彼は母の立場をこう考え尽した後《あと》、父としての自分の立場をも考えた。そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思い到《いた》った時、彼は心のうちでまた細君に向っていった。
「子供を有《も》った御前は仕合せである。しかしその仕合を享《う》ける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」
九十四
年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ寐《ね》ると御正月」という唄《うた》をうたった。彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。来《きた》るべき新年の希望に充《み》ちていた。
書斎にいる健三は時々手に洋筆《ペン》を持ったまま、彼らの声に耳を傾けた。自分にもああいう時代があったのかしらなどと考えた。
子供はまた「旦那の嫌《きらい》な大晦日《おおみそか》」という毬歌《まりうた》をうたった。健三は苦笑した。しかしそれも今の自分の身の上には痛切に的中《あてはま》らなかった。彼はただ厚い四《よ》つ折の半紙の束を、十《とお》も二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤い印気《インキ》で棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。
半紙に認ためられたものは悉《ことごと》く鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字画さえ判然《はんぜん》しないのが多かった。乱暴で読めないのも時々出て来た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は落胆《がっかり》した。「ペネロピーの仕事」という英語の俚諺《ことわざ》が何遍となく彼の口に上《のぼ》った。
「何時まで経ったって片付きゃしない」
彼は折々筆を擱《お》いて溜息《ためいき》をついた。
しかし片付かないものは、彼の周囲前後にまだいくらでもあった。彼は不審な顔をしてまた細君の持って来た一枚の名刺に眼を注がなければならなかった。
「何だい」
「島田の事についてちょっと御目に掛りたいっていうんです」
「今|差支《さしつかえ》るからって返してくれ」
一度立った細君はすぐまた戻って来た。
「何時伺ったら好《い》いか御都合を聞かして頂きたいんですって」
健三はそれどころじゃないという顔をしながら、自分の傍《そば》に高く積み重ねた半紙の束を眺めた。細君は仕方なしに催促した。
「何といいましょう」
「明後日《あさって》の午後に来て下さいといってくれ」
健三も仕方なしに時日を指定した。
仕事を中絶された彼はぼんやり烟草《タバコ》を吹かし始めた。ところへ細君がまた入って来た。
「帰ったかい」
「ええ」
細君は夫の前に広げてある赤い印《しるし》の附いた汚ならしい書きものを眺めた。夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。――
調べ物を度外に置いた彼女は、坐《すわ》るとすぐ夫に訊《たず》ねた。――
「また何かそういって来る気でしょうね。執《しつ》ッ濃《こ》い」
「暮のうちにどうかしようというんだろう。馬鹿らしいや」
細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。健三の心はかえって昔の関係上多少の金を彼に遣《や》る方に傾いていた。しかし話は其所《そこ》まで発展する機会を得ずによそへ外《そ》れてしまった。
「御前の宅《うち》の方はどうだい」
「相変らず困るんでしょう」
「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」
「あれは出来るんですって。けれどもそうこっちの都合の好いように、ちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう」
「この暮のうちには六《む》ずかしいのかね」
「とても」
「困るだろうね」
「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」
細君は割合に落付《おちつ》いていた。何事も諦《あき》らめているらしく見えた。
九十五
見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日《なかいちにち》置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先《ペンさき》で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の指頭《ゆびさき》は赤い印気《インキ》で所々汚《よご》れていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。
島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異《こと》にしていたが、健三からいえば、双方とも殆《ほと》んど差別のない位懸け離れた人間であった。
彼は縞《しま》の羽織《はおり》に角帯《かくおび》を締めて白足袋《しろたび》を穿《は》いていた。商人とも紳土とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に訊《き》いた。――
「貴方《あなた》は私《わたくし》の顔を覚えて御出《おいで》ですか」
健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。強《し》いていえば、今日《こんにち》までただ世帯染《しょたいじ》みて生きて来たという位のものであった。
「どうも分りませんね」
彼は勝ち誇った人のように笑った。
「そうでしょう。もう忘れても好《い》い時分ですから」
彼は区切を置いてまた附け加えた。
「しかし私ゃこれでも貴方の坊《ぼっ》ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」
「そうですか」
健三は素《そ》ッ気《け》ない挨拶《あいさつ》をしたなり、その人の顔を凝《じっ》と見守った。
「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所《あつかいじょ》を遣《や》っていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯《いたずら》をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱《すずりばこ》の中にあったんでさあ。あの時|金盥《かなだらい》に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」
健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前に坐《すわ》っている人のその時の姿などは夢にも憶《おも》い出せなかった。
「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのために上《あが》ったような訳合《わけあい》なんです」
彼は直《すぐ》本題に入った。そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。
「もう再び御宅へは伺わないといってますから」
「この間帰る時既にそういって行ったんです」
「で、どうでしょう、此所《ここ》いらで綺麗《きれい》に片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」
健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の口気《こうき》を快よく思わなかった。
「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、私《わたし》にはよッぽど心持が好いんです」
その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。
「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも纏《まと》めたものを渡して、あの書付と引《ひ》き易《か》えになすった方が好くはありませんか」
健三はその書付を慥《たしか》に覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、向後《こうご》御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を僅《わずか》二行|余《あまり》に綴《つづ》って先方へ渡した。
「あんなものは反故《ほご》同然ですよ。向《むこう》で持っていても役に立たず、私が貰《もら》っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」
健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。
九十六
話が行き詰るとその人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。いう事は散漫であった。理で押せなければ情《じょう》に訴えるという風でもなかった。ただ物にさえすれば好いという料簡《りょうけん》が露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。
「書付を買えの、今に迷惑するのが厭《いや》なら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り向後《こうご》一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」
「ええそれがつまり私《わたくし》の来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」
健三はそんなら何故《なぜ》早くそういわないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。
「じゃどの位出して下さいます」
健三は黙って考えた。しかしどの位が相当のところだか判明《はっきり》した目安の出て来《き》ようはずはなかった。その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。
「まあ百円位なものですね」
「百円」
その人はこう繰り返した。
「どうでしょう、責《せ》めて三百円位にして遣《や》る訳には行きますまいか」
「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」
「御尤《ごもっと》もだが、島田さんもああして困ってるもんだから」
「そんな事をいやあ、私《わたし》だって困っています」
「そうですか」
彼の語気は
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