ころもあった。
「酒でも飲むんじゃなかろうか」
 こんな推察さえ彼の胸を横切った。
 御常の肌身《はだみ》に着けているものは悉《ことご》とく古びていた。幾度《いくたび》水を潜《くぐ》ったか分らないその着物なり羽織《はおり》なりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、綺麗《きれい》に洗張《あらいはり》が出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら如何《いか》にも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。
「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」
「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」
 健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。
「この人は己《おれ》を自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」
 近頃の健三は実際健康を損《そこ》なっていた。それを自覚しつつ彼は医者にも診《み》てもらわなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。しかし身体の未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]した。或時は他《ひと》が自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。
「年が若くって起居《たちい》に不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構《もんがまえ》の宅《うち》に住んで下女《げじょ》さえ使っていれば金でもあると考えるように」
 健三は黙って御常の顔を眺めていた。同時に彼は新らしく床《とこ》の間《ま》に飾られた花瓶《はないけ》とその後に懸っている懸額《かけがく》とを眺めた。近いうちに袖《そで》を通すべきぴかぴかする反物《たんもの》も彼の心のうちにあった。彼は何故《なぜ》この年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。
「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」
 彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。
 御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の手腕《うで》がすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも見当《みあた》らないらしかった。
「何しろ取高《とりだか》が少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し稼《かせ》いでくれると好《い》いのですけれども」
 彼女は自分の娘婿を捉《つら》まえて愚図だとも無能《やくざ》だともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。あたかも物指《ものさし》で反物の寸法さえ計れば、縞柄《しまがら》だの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。
 生憎《あいにく》健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。

     八十八

 好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。
「失礼ですがこれで俥《くるま》へでも乗って行って下さい」
「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりで上《あが》ったのでは御座いませんから」
 彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐《ふところ》へ入れた。
 小遣を遣《や》る時の健三がこの前と同じ挨拶《あいさつ》を用いたように、それを貰《もら》う御常の辞令も最初と全く違わなかった。その上偶然にも五円という金高《かねだか》さえ一致していた。
「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」
 健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。
「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が要《い》らざる義理立《ぎりだて》をするのと同じ事なのかしら」
 自分の関係した事じゃないといった風に熨斗《ひのし》を動かしていた細君は、手を休めずにこういった。――
「ないときは遣らないでも好《い》いじゃありませんか。何もそう見栄《みえ》を張る必要はないんだから」
「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」
 二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を熨斗《ひのし》から火鉢《ひばち》へ移す音がその間に聞こえた。
「どうしてまた今日は五円入っていたんです。貴夫《あなた》の紙入《かみいれ》に」
 健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶《はないけ》を買うのに四円いくらか払った。懸額《かけがく》を誂《あつ》らえるとき五円なにがしか取られた。指物師《さしものし》が百円に負けて置くから買わないかといった立派な紫檀《したん》の書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人《しょうにん》の手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙《いせざきめいせん》を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢《てあか》の付いた五円札がたった一枚残ったのである。
「実はまだ買いたいものがあるんだがな」
「何を御買いになるつもりだったの」
 健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。
「沢山あるんだ」
 慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚を有《も》っている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。
「あの御婆《おばあ》さんは御姉《おあねえ》さんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と宅《うち》で落ち合っても、そう喧嘩《けんか》もしないでしょう」
「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ堪《たま》らないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」
「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」
「喧嘩はとにかく、己《おれ》の方が厭《いや》じゃないか」
「二人ともまだ知らないようね。片っ方が宅《うち》へ来る事を」
「どうだか」
 島田はかつて御常の事を口にしなかった。御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。
「あの御婆さんの方がまだあの人より好《い》いでしょう」
「どうして」
「五円貰うと黙って帰って行くから」
 島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。

     八十九

 日ならず鼻の下の長い島田の顔がまた健三の座敷に現われた時、彼はすぐ御常の事を聯想《れんそう》した。
 彼らだって生れ付いての敵《かたき》同志でない以上、仲の好《い》い昔もあったに違ない。他《ひと》から爪《つめ》に灯《ひ》を点《とも》すようだといわれるのも構わずに、金ばかり溜《た》めた当時は、どんなに楽しかったろう。どんな未来の希望に支配されていただろう。彼らに取って睦《むつ》ましさの唯一の記念とも見るべきその金がどこかへ飛んで行ってしまった後《あと》、彼らは夢のような自分たちの過去を、果してどう眺めているだろう。
 健三はもう少しで御常の話を島田にするところであった。しかし過去に無感覚な表情しか有《も》たない島田の顔は、何事も覚えていないように鈍かった。昔の憎悪《ぞうお》、古い愛執《あいしゅう》、そんなものは当時の金と共に彼の心から消え失せてしまったとしか思われなかった。
 彼は腰から烟草入《タバコいれ》を出して、刻み烟草を雁首《がんくび》へ詰めた。吸殻《すいがら》を落すときには、左の掌《てのひら》で烟管《キセル》を受けて、火鉢《ひばち》の縁を敲《たた》かなかった。脂《やに》が溜《たま》っていると見えて、吸う時にじゅじゅ音がした。彼は無言で懐中《ふところ》を探った。それから健三の方を向いた。
「少し紙はありませんか、生憎《あいにく》烟管が詰って」
 彼は健三から受取った半紙を割《さ》いて小撚《こより》を拵《こしら》えた。それで二返も三返も羅宇《ラウ》の中を掃除した。彼はこういう事をするのに最も馴《な》れた人であった。健三は黙ってその手際を見ていた。
「段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう」
 彼は疎通《とおり》の好くなった烟管をぷっぷっと心持好さそうに吹きながらこういった。
「我々の家業は暮も正月もありません。年が年中同じ事です」
「そりゃ結構だ。大抵の人はそうは行きませんよ」
 島田がまだ何かいおうとしているうちに、奥で子供が泣き出した。
「おや赤ん坊のようですね」
「ええ、つい此間《こないだ》生れたばかりです」
「そりゃどうも。些《ちっ》とも知りませんでした。男ですか女ですか」
「女です」
「へええ、失礼だがこれで幾人《いくたり》目ですか」
 島田は色々な事を訊《き》いた。それに相当な受応《うけこたえ》をしている健三の胸にどんな考えが浮かんでいるかまるで気が付かなかった。
 出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四、五日前ある外国の雑誌で読んだ健三は、その時赤ん坊がどこかで一人生れれば、年寄が一人どこかで死ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。
「つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ」
 彼の観念は夢のようにぼんやりしていた。詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。それをもっと明瞭《めいりょう》になるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。次には赤ん坊の父親でもあった。けれども今の健三は其所《そこ》まで行く気はなかった。ただ自分の前にいる老人にだけ意味のある眼《まなこ》を注いだ。何のために生きているか殆《ほと》んど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間に違なかった。
「どういう訳でこう丈夫なのだろう」
 健三は殆んど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。そうして人並でないわが健康状態については、毫《ごう》も責任がないものの如き忌々《いまいま》しさを感じた。その時島田は彼に向って突然こういった。――
「御縫《おぬい》もとうとう亡くなってね。御祝儀は済んだが」
 とても助からないという事だけは、脊髄病《せきずいびょう》という名前から推《お》して、とうに承知していたようなものの、改まってそういわれて見ると、健三も急に気の毒になった。
「そうですか。可愛想《かわいそう》に」
「なに病気が病気だからとても癒《なお》りっこないんです」
 島田は平然としていた。死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。

     九十

 しかしこの不幸な女の死に伴なって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりも遥《はるか》に重大であった。健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。
「それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが」
 此所《ここ》まで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。健三は聴かない先からその後《あと》を推察する事が出来た。
「また金でしょう」
「まあそうで。御縫が死んだんで、柴野と御藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」
 島田の言葉は変にぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]になったり、また鄭寧《ていねい》になったりした。
「今までは金鵄勲章《きんしくんしょう》の年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。それが急になくなると、まるで目的《あて》が外れるような始末で、私《わたし》も困るんです」
 彼はまた調子を改めた。
「とにかくこうなっちゃ、御前を措《お》いてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。だからどう
前へ 次へ
全35ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング