代表者の如くに見えた。彼女の考えは単純であった。今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のように、型が変って行くに違ないという確信を有《も》っていた。
 案に相違して健三は頑強《がんきょう》であった。同時に細君の膠着力《こうちゃくりょく》も固かった。二人は二人同志で軽蔑《けいべつ》し合った。自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、ややともすると心の中で夫に反抗した。健三はまた自分を認めない細君を忌々《いまいま》しく感じた。一刻な彼は遠慮なく彼女を眼下に見下《みくだ》す態度を公けにして憚《はばか》らなかった。
「じゃ貴夫が教えて下されば好《い》いのに。そんなに他《ひと》を馬鹿にばかりなさらないで」
「御前の方に教えてもらおうという気がないからさ。自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ、己《おれ》にゃどうする事も出来ないよ」
 誰が盲従するものかという気が細君の胸にあると同時に、到底啓発しようがないではないかという弁解が夫の心に潜んでいた。二人の間に繰り返されるこうした言葉争いは古いものであった。しかし古いだけで埓《らち》は一向開かなかった。
 健三はもう飽きたという風をして、手摺《てずれ》のした貸本を投げ出した。
「読むなというんじゃない。それは御前の随意だ。しかし余《あん》まり眼を使わないようにしたら好いだろう」
 細君は裁縫《しごと》が一番好きであった。夜《よる》眼が冴《さ》えて寐《ね》られない時などは、一時でも二時でも構わずに、細い針の目を洋燈《ランプ》の下に運ばせていた。長女か次女が生れた時、若い元気に任せて、相当の時期が経過しないうちに、縫物を取上げたのが本《もと》で、大変視力を悪くした経験もあった。
「ええ、針を持つのは毒ですけれども、本位構わないでしょう。それも始終読んでいるんじゃありませんから」
「しかし疲れるまで読み続けない方が好かろう。でないと後で困る」
「なに大丈夫です」
 まだ三十に足りない細君には過労の意味が能く解らなかった。彼女は笑って取り合わなかった。
「御前が困らなくっても己が困る」
 健三はわざと手前勝手らしい事をいった。自分の注意を無にする細君を見ると、健三はよくこんな言葉遣いをしたがった。それがまた夫の悪い癖の一つとして細君には数えられていた。
 同時に彼のノートは益《ますます》細かくなって行った。最初|蠅《はえ》の頭位であった字が次第に蟻《あり》の頭ほどに縮まって来た。何故《なぜ》そんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、殆《ほと》んど無意味に洋筆《ペン》を走らせてやまなかった。日の光りの弱った夕暮の窓の下、暗い洋燈《ランプ》から出る薄い灯火《ともしび》の影、彼は暇さえあれば彼の視力を濫費《らんぴ》して顧みなかった。細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。細君もそれで平気らしく見えた。

     八十五

 細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱の錐《きり》を立てようとしていた。
「大変荒れた事、今年は例《いつも》より寒いようね」
「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」
「そうでしょうかしら」
 細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢《ひばち》の上に翳《かざ》して、自分の爪《つめ》の色を見た。
「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」
「ええ、そりゃ分ってますわ」
 彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白《あおしろ》い頬《ほお》を二、三度|撫《な》でた。
「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」
 健三には自分の説明を聴かない細君が可笑《おか》しく見えた。
「そりゃ冬だから寒いに極《きま》まっているさ」
 細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼の身体《からだ》に厳しく中《あた》った。彼はやむをえず書斎に炬燵《こたつ》を入れて、両膝《りょうひざ》から腰のあたりに浸《し》み込む冷《ひえ》を防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君と異《かわ》る所がなかった。
 毎朝夫を送り出してから髪に櫛《くし》を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女は梳《す》くたびに櫛の歯に絡《から》まるその抜毛を残り惜気《おしげ》に眺めた。それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。
「新らしく生きたものを拵《こしら》え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」
 彼女の胸には微《かす》かにこういう感じが湧《わ》いた。しかし彼女はその微かな感じを言葉に纏《まと》めるほどの頭を有《も》っていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みと、が交《まじ》っていた。いずれにしても、新らしく生れた子が可愛《かあい》くなるばかりであった。
 彼女はぐたぐたして手応《てごた》えのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い頬《ほお》へ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。
 彼女は自分の傍《わき》にその子を置いて、また裁《たち》もの板の前に坐《すわ》った。そうして時々針の手をやめては、暖かそうに寐《ね》ているその顔を、心配そうに上から覗《のぞ》き込んだ。
「そりゃ誰の着物だい」
「やっぱりこの子のです」
「そんなにいくつも要《い》るのかい」
「ええ」
 細君は黙って手を運ばしていた。
 健三は漸《やっ》と気が付いたように、細君の膝《ひざ》の上に置かれた大きな模様のある切地《きれじ》を眺めた。
「それは姉から祝ってくれたんだろう」
「そうです」
「下らない話だな。金もないのに止せば好《い》いのに」
 健三から貰《もら》った小遣の中《うち》を割《さ》いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。
「つまり己《おれ》の金で己が買ったと同じ事になるんだからな」
「でも貴夫《あなた》に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」
 姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。他《ひと》から物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。
「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田《ひだ》に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」
 こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。
「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」
 他《ひと》を訪問する時に殆《ほと》んど土産《みやげ》ものを持参した例《ためし》のない健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にあるめりんす[#「めりんす」に傍点]を見詰めていた。

     八十六

「だから元は御姉《おあねえ》さんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって」
 細君は健三の顔を見て突然こんな事をいい出した。――
「十《とお》のものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから、皆なその御礼を目的《あて》に何か呉れるんだそうですよ」
「十のものに十五の返しをするったって、高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」
「それで沢山なんでしょう。そういう人たちは」
 他《ひと》から見ると酔興としか思われないほど細かなノートばかり拵《こしら》えている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。
「随分厄介な交際《つきあい》だね。だいち馬鹿々々しいじゃないか」
「傍《はた》から見れば馬鹿々々しいようですけれども、その中に入ると、やっぱり仕方がないんでしょう」
 健三はこの間よそから臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題について考えさせられた。
 今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に滴《したた》る面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。
 兼《かね》てからわが座敷の如何《いか》にも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂《だんござか》にある唐木《からき》の指物師《さしものし》の所へ行って、紫檀《したん》の懸額《かけがく》を一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達に貰《もら》った北魏《ほくぎ》の二十品《にじっぴん》という石摺《いしずり》のうちにある一つを択《え》り出して入れた。それからその額を環《かん》の着いた細長い胡麻竹《ごまだけ》の下へ振《ぶ》ら下げて、床の間の釘《くぎ》へ懸けた。竹に丸味があるので壁に落付《おちつ》かないせいか、額は静かな時でも斜《ななめ》に傾《かたぶ》いた。
 彼はまた団子坂を下りて谷中《やなか》の方へ上《のぼ》って行った。そうして其所《そこ》にある陶器店から一個の花瓶《はないけ》を買って来た。花瓶は朱色であった。中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。高さは一尺余りであった。彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。大きな花瓶とふらふらする比較的小さい懸額とはどうしても釣合が取れなかった。彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。けれどもまるで何にもないよりは増しだと考えた。趣味に贅沢《ぜいたく》をいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。
 彼はまた本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物《たんもの》を買った。織物について何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好《い》い加減な選択をした。それはむやみに光る絣《かすり》であった。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。番頭に揃《そろ》いの羽織《はおり》と着物を拵《こしら》えるべく勧められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙《いせざきめいせん》を抱えて店を出た。その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。
 これらの物を買い調《ととの》えた彼は毫《ごう》も他人について考えなかった。新らしく生れる子供さえ眼中になかった。自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。俗社会の義理を過重《かちょう》する姉に比べて見ると、彼は憐《あわ》れなものに対する好意すら失なっていた。
「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。しかし姉は生れ付いての見栄坊《みえぼう》なんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」
「親切気《しんせつぎ》はまるでないんでしょうか」
「そうさな」
 健三はちょっと考えなければならなかった。姉は親切気のある女に違いなかった。
「ことによると己《おれ》の方が不人情に出来ているのかも知れない」

     八十七

 この会話がまだ健三の記憶を新しく彩《いろど》っていた頃、彼は御常《おつね》から第二回の訪問を受けた。
 先達《せんだっ》て見た時とほぼ同じように粗末な服装《なり》をしている彼女の恰好《かっこう》は、寒さと共に襦袢胴着《じゅばんどうぎ》の類でも重ねたのだろう、前よりは益《ますます》丸まっちくなっていた。健三は客のために出した火鉢《ひばち》をすぐその人の方へ押し遣《や》った。
「いえもう御構い下さいますな。今日《きょう》は大分《だいぶ》御暖《おあった》かで御座いますから」
 外部《そと》には穏やかな日が、障子に篏《はめ》めた硝子越《ガラスごし》に薄く光っていた。
「あなたは年を取って段々御肥《おふと》りになるようですね」
「ええ御蔭さまで身体《からだ》の方はまことに丈夫で御座います」
「そりゃ結構です」
「その代り身上《しんしょう》の方はただ痩《や》せる一方で」
 健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見えると
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