美くしい子であった。健三はよくその子を乳母車《うばぐるま》に乗せて町の中を後《うしろ》から押して歩いた。時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながら宅《うち》へ帰って来た。しかし当《あて》にならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人に伴《つ》れられて彼を新橋《しんばし》に迎えたこの娘は、久しぶりに父の顔を見て、もっと好《い》い御父《おとう》さまかと思ったと傍《はた》のものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々丈《たけ》が詰って来た。輪廓に角《かど》が立った。健三はこの娘の容貌の中《うち》にいつか成長しつつある自分の相好《そうごう》の悪い所を明らかに認めなければならなかった。
次女は年が年中|腫物《できもの》だらけの頭をしていた。風通しが悪いからだろうというのが本《もと》で、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに剪《き》ってしまった。顋の短かい眼の大きなその子は、海坊主《うみぼうず》の化物《ばけもの》のような風をして、其所《そこ》いらをうろうろしていた。
三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。
「ああいうものが続々生れて来て、必竟《ひっきょう》どうするんだろう」
彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気《おぼろげ》に交《まじ》っていた。
彼は外へ出る前にちょっと寝室へ顔を出した。細君は洗い立てのシーツの上に穏かに寐《ね》ていた。子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具|蒲団《ふとん》に包《くる》まれたまま、傍に置いてあった。その子供は赤い顔をしていた。昨夜《ゆうべ》暗闇《くらやみ》で彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。
一切も綺麗《きれい》に始末されていた。其所《そこ》いらには汚《よご》れ物《もの》の影さえ見えなかった。夜来《やらい》の記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。
「蒲団は換えて遣《や》ったのかい」
「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」
「よくこう早く片付けられるもんだね」
産婆は笑うだけであった。若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。
「貴夫《あなた》がむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」
「そうだろう。随分驚ろいたからね」
こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失なって蒼《あお》い顔をしている細君の方が懸念の種になった。
「どうだ」
細君は微《かす》かに眼を開けて、枕の上で軽く肯《うな》ずいた。健三はそのまま外へ出た。
例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元に坐《すわ》った。
「どうだ」
しかし細君はもう肯ずかなかった。
「何だか変なようです」
彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照《ほて》っていた。
「心持が悪いのかい」
「ええ」
「産婆を呼びに遣ろうか」
「もう来るでしょう」
産婆は来るはずになっていた。
八十二
やがて細君の腋《わき》の下に験温器が宛《あて》がわれた。
「熱が少し出ましたね」
産婆はこういって度盛《どもり》の柱の中に上《のぼ》った水銀を振り落した。彼女は比較的言葉|寡《ずく》なであった。用心のため産科の医者を呼んで診《み》てもらったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。
「大丈夫なのかな」
「どうですか」
健三は全くの無知識であった。熱さえ出ればすぐ産褥熱《さんじょくねつ》じゃなかろうかという危惧《きぐ》の念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。
「どうですかって、御前の身体《からだ》じゃないか」
細君は何とも答えなかった。健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。
「人がこんなに心配して遣《や》るのに」
この感じを翌《あく》る日まで持ち続けた彼は、何時もの通り朝早く出て行った。そうして午後に帰って来て、細君の熱がもう退《さ》めている事に気が付いた。
「やっぱり何でもなかったのかな」
「ええ。だけど何時また出て来るか分りませんわ」
「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」
健三は真面目《まじめ》であった。細君は淋《さび》しい頬《ほお》に微笑を洩《も》らした。
熱は幸《さいわい》にしてそれぎり出なかった。産後の経過は先ず順当に行った。健三は既定の三週間を床の上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながら坐《すわ》った。
「今度《こんだ》は死ぬ死ぬっていいながら、平気で生きているじゃないか」
「死んだ方が好ければ何時でも死にます」
「それは御随意だ」
夫の言葉を笑談《じょうだん》半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。
「実際|今度《こんだ》は死ぬと思ったんですもの」
「どういう訳で」
「訳はないわ、ただ思うのに」
死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。
「御前は呑気《のんき》だね」
「貴夫《あなた》こそ呑気よ」
細君は嬉《うれ》しそうに自分の傍《そば》に寐《ね》ている赤ん坊の顔を見た。そうして指の先で小さい頬片《ほっぺた》を突《つっ》ついて、あやし始めた。その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた眼鼻《めはな》を有《も》っているとはいえないほど変な顔をしていた。
「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎるようだね」
「今に大きくなりますよ」
健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。
「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。
「何ですって」
健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。
「それがどうしたの」
「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」
「詰らないわ。他《ひと》に解らない事さえいいや、好《い》いかと思って」
細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三は厭《いや》な顔もせずに書斎へ入った。
彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息《ぜんそく》で斃《たお》れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手に入《い》るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他《た》島田の事も御常《おつね》の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。
八十三
子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、閑《ひま》さえあると、新らしい妹《いもと》の傍《そば》に寄りたがった。その妹の瞬《またた》き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、嚏《くさめ》でも欠《あくび》でも何でもかでも不可思議な現象と見えた。
「今にどんなになるだろう」
当面に忙殺《ぼうさい》される彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。自分たち自身の今にどんなになる[#「なる」に傍点]かをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。
この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。
「また塊《かたま》っているな」
彼はすぐ踵《きびす》を回《めぐ》らして部屋の外へ出る事があった。
時によると彼は服も改めずにすぐ其所《そこ》へ胡坐《あぐら》をかいた。
「こう始終|湯婆《ゆたんぽ》ばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」
彼は何にも解らないくせに好《い》い加減な小言《こごと》をいってかえって細君から笑われたりした。
日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つ室《へや》に塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。
「女は子供を専領してしまうものだね」
細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。其所《そこ》には自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。
「何で藪《やぶ》から棒にそんな事を仰《おっし》ゃるの」
「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討《かたきうち》をするつもりなんだろう」
「馬鹿を仰ゃい。子供が私《わたくし》の傍《そば》へばかり寄り付くのは、貴夫《あなた》が構い付けて御遣《おや》りなさらないからです」
「己《おれ》を構い付けなくさせたものは、取《とり》も直さず御前だろう」
「どうでも勝手になさい。何ぞというと僻《ひが》みばかりいって。どうせ口の達者な貴夫には敵《かな》いませんから」
健三はむしろ真面目《まじめ》であった。僻みとも口巧者《くちごうしゃ》とも思わなかった。
「女は策略が好きだからいけない」
細君は床の上で寐返《ねがえ》りをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。
「そんなに何も私《わたくし》を虐《いじ》めなくっても……」
細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ産褥《さんじょく》を離れ得ない彼女の前に慰藉《いしゃ》の言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を拭《ふ》いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。
次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。
「貴夫|何故《なぜ》その子を抱いて御遣りにならないの」
「何だか抱くと険呑《けんのん》だからさ。頸《くび》でも折ると大変だからね」
「嘘《うそ》を仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する情合《じょうあい》が欠けているんですよ」
「だって御覧な、ぐたぐたして抱き慣《つ》けない男に手なんか出せやしないじゃないか」
実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡《みずぼうそう》の出来た時、健三の態度が俄《にわ》かに一変した実例を証拠に挙げた。
「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」
健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。
「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」
彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡《すべ》ての技巧から解放された自由の人であるかのように。
八十四
退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能《よ》く床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意を惹《ひ》く時、彼は細君に向って訊《き》いた。
「こんなものが面白いのかい」
細君は自分の文学趣味の低い事を嘲《あざ》けられるような気がした。
「いいじゃありませんか、貴夫《あなた》に面白くなくったって、私《わたくし》にさえ面白けりゃ」
色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。
健三の所へ嫁《とつ》ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入《でいり》する二、三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とは異《ちが》った意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の
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